odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

フリーマン・クロフツ「樽」(創元推理文庫) 「何かに詰められた死体がたどった経路を追ううちに謎が深まる」というスタイルの嚆矢。

 中学生の時に読んで、それなりに感動した。それまで読んできたクイーンやクリスティの謎解き小説とは違った味わい。堅実でけれんのない捜査に謎。途中で容疑者ひとりにしぼられるが、鉄壁のアリバイがある。それをくずす警察と私立探偵の足と口。
 以来、半世紀に近い年月を経ての読み直し。今回は大失望。途中で根気がなくなって、ラ・トゥーシュ探偵の活躍は早送りするようにページを繰ってしまった。

埠頭で荷揚げ中に落下事故が起こり、珍しい形状の異様に重い樽が破損した。樽はパリ発ロンドン行き、中身は「彫像」とある。こぼれたおが屑に交じって金貨が数枚見つかったので割れ目を広げたところ、とんでもないものが入っていた。荷の受取人と海運会社間の駆け引きを経て樽はスコットランドヤードの手に渡り、中から若い女性の絞殺死体が……。次々に判明する事実は謎に満ち、事件はめまぐるしい展開を見せつつ混迷の度を増していく。真相究明の担い手もまた英仏警察官から弁護士、私立探偵に移り緊迫の終局へ向かう。クロフツ渾身の処女作にして探偵小説史にその名を刻んだ大傑作。
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488106331

 女性はパリの会社社長の妻とわかり、妻が不倫相手にしていた画家。ロンドンにいた画家にパリの賭けの約束で樽に詰めた金を送るという。当然、密輸になるので樽は彫像を入れておいたと連絡があり、受け取る途中でバランスを崩した樽(表記の品物から予想される重さの数倍になっていたため)が落下。上の次第になる。この樽がパリからロンドンに行く途中、行方不明になった時間があり、どうも二つの樽が行き来していたらしい。それを突き止めた警察は画家を逮捕した。友人は無実を信じ、弁護士と私立探偵を雇って、ロンドンとパリの警察がした捜査をやり直す。
 小説はこの成り行きを警察と私立探偵の視線で語り続ける。彼らはひたすら聞き込みをする。その間、何も事件が起こらない。二人の警官は意気投合して、友愛に満ちた捜査をし、悪人は絶対に姿を現さない。恋愛もないし、買収もないし、けんかもない。尋問された関係者はみな抜群の記憶力をもっていて、簡潔かつよどみなく数か月前のできごとを説明する。その平坦な描写にへこたれました。この単調さと凡庸な捜査は20世紀の小説ではない。似ているのはガボリオの「ルコック探偵」第1部。なんとも古風な小説でした。そのうえ文体も単調。彼らは見聞きするものの報告にあたり、描写もしないし比喩も加えない。彼らの職務に忠実な意識は、ハードボイルドの自己意識と社会批判の目も詠嘆もない。それこそ、警察調書を呼んでいる感じ。それくらいにリアリズムを徹底している。この文体と視線を引き継ぐ作家はこのあともいて、自分の読書の範囲ではコリン・デクスターがそう(「ウッドストック行最終バス」しか知らないが)。あと戦後の日本推理小説の書き手。日本の作家はクロフツのまずいところだけを引き継いだように思った。
 この作は1920年発表。事件が起きたのは1912年。同時代にしなかったのは、数年前におえた第1次大戦の影響だろう。戦争の荒廃が残る時代には、樽と美女が行き来する物語は成立しがたい。
 クロフツは会社の業務や事務をよく知っている人で、書類の書き方から商品の出荷に引き渡しに金銭出納まで正確このうえない。あわせて会社で使うものもきちんと枚挙する。自動車、カメラ、写真、タクシー、電話・電報、内線電話など。1912年(ないし1920年)においてこれらがビジネスに使われていたことが興味深い。個人が所有して趣味やレジャーに使うようになったのは、同じ20年代のもう少し後。でもビジネスでは普及していてある程度の規模なら持っていた。テクノロジーの発展と普及がすでに起きていたというのが重要な発見でした。


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<参考エントリー>
フリーマン・クロフツ「ヴォスパー号の喪失」(ハヤカワポケットミステリ)
 1914年のブラマ「ブルックベンド荘の悲劇」にも、当時のロンドンの自動車所有状況がでてくる。
江戸川乱歩「世界短編傑作集 2」(創元推理文庫)

 解説で「何かに詰められた死体が、どこかに送り届けられる。そしてなにかがたどった経路を追ううちに謎が深まる」というスタイルに追随したミステリーは日本で多数書かれてきた。「樽」を不動の名作の座に据えたから、と言っていた。これは鋭い指摘。いくつかの長編がすぐに思い浮かぶ。
 中学生の読書では、「英仏海峡の謎」と「クロイドン発12時30分」が面白かった記憶があるのだが、もう手に取ることはないだろうなあ。