odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ハロルド・ウィンター「人でなしの経済理論」(バジリコ) 「正義の対立」はトレードオフで解決可能(でも功利主義は万能ではない)

 原著は2005年で邦訳は2009年。複数のステークホルダーがいて、解決の調停や交渉が難しい時、それぞれの費用と便益を数値化して(下にあるようにデータにバイアスがあるとか、統計がとりにくいとか問題はあるが)、トレードオフを考慮することを推奨する。なにしろ、人間は行動する際に、厳密な数値化はしていなくても、行動による費用と便益を評価して、行動を決定しているのだから。

社会問題へのアプローチ ・・・ 公共政策を考える際に、道徳的・倫理的・法的側面も重要だが、経済学のアプローチですっきりできる。すなわちその問題や政策のトレードオフを見極め、調べて、社会的厚生(費用と便益の差)を最大化することを目指せばよい。
ベンサムの「最大多数の最大幸福」を目的にするわけですな。)

人命の価値っていかほど? ・・・ 倫理的・法的に暮らすといっても、人は費用対効果(この場合はコストよりリスクとベネフィットにしたほうがよいか?)を無意識でも考慮している。政策を考えるときには、人命の価格を労働市場データで調査し指標にするとよい。
(ここの暗黙の前提は人は同一・同質、すなわち同価値で同じ権利をもっているということ。)

 以下の章はトレードオフの様々な事例。
取引しようか? ・・・ 交換価値は主観的。それに取引費用(情報収集、移動、交渉時間など)も加わり、取引が常に成立するとは限らない。

おまえのものはオレのもの ・・・ 生産物・商品の価格をいかに決めるか。著作権や特許の保護はどこまでが妥当か。

持っているなら吸ってはいかが ・・・ 費用と便益をどう評価するか。タバコと自動車。どちらも健康に悪いのに、なぜやめない。

人に迷惑をかけないとは? ・・・ 負の外部性(個人の私的な行動が別の個人にコストをかける:個人というけど法人の生産活動などを含む)をどう評価するか。費用と便益の集計と評価が大事。
(外部の利益を資金にした研究・調査は結果がどうあれ歪んでいる可能性があるから、データ重視で行くのは危険だと主張。それをもとに利害関係者のトレードオフを算出することが重要。

規制と行動の変化 ・・・ 技術的な安全策が危険行動の誘因になる。オフセット(相殺)行動。車のシートベルト、医療の事前検査など。

警告―製品に注意 ・・・ 商品・製品の欠陥や誤使用による事故の責任はどこがどこまで取るか。事前の対策や啓発はどこまでコストをかけるべきか。防衛から賠償までで政府はどこまで介入すべきか。
製造物責任は製品のメーカーのみならず、それを商用目的で使用する企業も入るケースがある。)

解決策などない? ・・・ トレードオフは市場で決まればいいけど、そういう問題だけではないので、公共政策などが必要。そのさい、トレードオフを算出することが大事。

 

 多くの問題でトレードオフを考慮することで解決はスムーズにいたる。なるほど道徳的・倫理的・法的問題が絡むことはあるが、数値と金で評価すると落としどころが見えてくることがある。日本の公共政策に関する議論では、道徳的・倫理的・法的問題がクローズアップされることが多く、賛成と反対のいずれかしかないという所に陥りやすいからねえ。
 とはいえ、トレードオフには問題がある。複数の関係者の費用と便益を評価する際、前提になっているのは関係者は同質であり、情報の偏りがなく、論理的に考えることができ、問題に対して同じ権利を持っているということ。ところが実際には前提通りになることはなく、同じ権利をもっていない人が関係者になっている場合がある。とくに権利が制限されている人たちが費用を負担するケースが事態を深刻にする。その際には、費用負担は少なく見積もられ、便益もさほどないことにされる。一方、便益を受けない側は自分が負担する費用は多めにされ、それを行わないときの便益が低いものにされる。その結果、トレードオフの際に不公正が生じることがあるのだ。
 よくあったケースは公害被害。ここでは公害を出す側の企業と政府の負担が少なくされ、公害被害者の権利と生命が損なわれた。21世紀ではBlack Lives Matterで顕著になる。あるいは女性差別(記憶に残るのは医学部受験の際に女性の評価が著しく低くされていたこと)やセクシャルマイノリティエスニックマイノリティなどへの差別でも同様。
 本書にあるケースでは生産者と消費者の権利は同等に見積もられていたが、取り上げられない差別の問題では加害者と被害者の権利はゆがめられている。なので、ステークホルダーの関係を考慮しないと、トレードオフは有効に働かない。そのさいには道徳的・倫理的・法的な正義と善を考慮しなければならなくなる。
(その際に、ロールズの格差原理が重要。)