odd_hatchの読書ノート

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アルベール・カミュ「シーシュポスの神話」(新潮文庫)-2 近代ヨーロッパに現れたある種の人たちが感じる自己肯定感の欠如

2023/08/25 アルベール・カミュ「シーシュポスの神話」(新潮文庫)-1 自意識過剰でフラフラしている青年が不満をぶちまけた哲学風な独り言 1942年の続き

 

 アルベールくんの「不条理」に関する饒舌は、人間の普遍的な性格を分析したのではなく、近代ヨーロッパに現れたある種の人たちを分析したのだ。ハンナ・アーレントが言う「モッブ」だし、ハイデガーの言う「ダス・マン」がそれ。資本主義の競争から脱落し、共同体から切り離されて孤立化アトム化した無個性の人。その群れ。「不条理」はマイノリティが社会的に押し付けられるものだが、アルベールくんはそこはみないでモッブやダス・マンが社会で不遇にある孤立化した〈この私〉が「不条理」を押し付けられていると感じる。その感じ方がモッブやダス・マンの精神を表すものだ。詳細は「異邦人」の感想に書いたので、そちらを参照。
アルベール・カミュ「異邦人」(新潮文庫)-1 植民地で起きたヘイトクライム事件の概要
アルベール・カミュ「異邦人」(新潮文庫)-2 植民地で起きたヘイトクライム事件の背景
 「異邦人」のマルソーは死刑になったが、「シーシュポスの神話」の書き手は生き続ける。俺が不安に思うのは、モッブやダス・マンの感じる自己肯定感の欠如はどこかによりどころを求めて帰属意識を満足させなければならないということだ。すでに神を信じていない/失っているモッブやダス・マンが見出すのは、国家や民族であるだろう。アルベールくんも全体主義運動に巻き込まれてしまうのではないか。
 アルベールくんによくにた独我論の持主の若者が陰謀論全体主義運動に巻き込まれていった例。
2011/07/16 コリン・ウィルソン「賢者の石」(創元推理文庫)
2016/09/02 山田正紀「神狩り」(角川文庫) 1974年
2017/02/06 大江健三郎「セヴンティーン」「政治少年死す」-1 1961年
2017/02/03 大江健三郎「セヴンティーン」「政治少年死す」-2 1961年

 という具合に、アルベールくんの「シーシュポスの神話」は社会の居心地が悪いと感じている若者の自意識過剰でとりとめがない哲学を装って不満をぶちまけた文章と読んだ。この独我論全体主義運動や陰謀論に行きつきやすい危険な兆候を持っていると見た。カミュは43歳で亡くなったので(1960年に交通事故で死亡)、思考がどこに行きつくかはわからないままになったけど。
 そうなるのはアルジェリアの辺境にあるとはいえ、高等教育を受けたフランスの白人男性であるからだろう。宗主国と植民地で優遇されたマジョリティとして暮らしていれば、ホモソーシャルな社会で「不条理」な扱いを受けることはなく、マイノリティの苦しみは見えないものになる。アルベールくんの同世代には、ハンナ・アーレント(1906-1975)、シモーヌ・ヴェイユ(1909-1943)という女性がいる。日常的に「不条理」にあっている女性(アーレントナチス時代にユダヤ人でもあった)のほうがいかにしっかりと不条理を考えていたか。ヴェイユの「重力と恩寵」、アーレントの「全体主義の起源」などが「シーシュポスの神話」に近い時期のものだが、女性の書いたもののほうが圧倒的によい出来栄えだった。

(別の見方。アルベールくんが考える「不条理」はたとえばヨブに不意に訪れたような神の試練であるのかもしれない。神を信じている人は不条理は神に課せられた試練であって、それに耐えて乗り越えることは信仰の強さを証明することであるだろう。でも神を信じない人(たとえばムルソー「異邦人」)には、試練を受ける理由も克服する意欲ももたない。いつまでも理性で割り切れない」と「明晰を求める死にものぐるいの願望」が相対峙する事態が続くことになる。それは世界への呪詛や怒りに転化し、自分がどうなってもいいニヒリズムに到着する。そういう過程を書いたのかも。タイトルにシーシュポスを登場させたのは、神のない時代に神を求める運動であるとのメタファーだったのかな。こっちから検討することも可能とは思うが、西洋的な神がいない列島住民としては誤りそうなのでやめておこう。)

 

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 本書「シーシュポスの神話」はキリーロフ(ドストエフスキー「悪霊」)の分析が載っているから読んでみた。特にメモしたいことはなかった。