19世紀後半、工業化によって資本主義がヨーロッパを覆う。機械の導入は生産性を向上し、賃金を上げるはずであったが、資本家や経営者は労働者の要求を拒んだ。労働環境は劣悪で病気にかかりやすく、事故が多発する危険な場所である。そのうえ政府は住宅問題の解決をはかろうとせず、都市に流入した貧困層は劣悪な住居に押し込められ、病気が蔓延し、教育を受けられないのでキャリアアップの可能性はなかった。病気や事故にあうことは即座に解雇を意味し、路頭に迷うことになる。ときに労働争議を起こしても、資本家と政府は暴力をもって蹴散らすばかり。貧困層は現実の苛烈さにあえいでいる。
そのときに希望とみえるのは、1871年のパリコミューン。政府と企業を麻痺させ、バリケードで囲まれた市民と労働者は祝祭的な陽気さと自発的な組織化を行い、自主管理・自主運営のコミューンを組織した。たとえ数日間とはいえど、その眩さはなんというものか、あの蜂起の瞬間にこそ、労働者の未来があるのではないか。あの未来を一瞬でも現出したのは、市民・労働者の暴力である。武装した市民と労働者が手を携えて蜂起すれば、政府や資本家の搾取から解放された未来=共産主義が到来する。その蜂起の方法と実現すべき共産主義は、マルクスが予見している。それを敷衍していけば、未来は現在の被搾取者のものである。
これがレーニンのモチーフであるだろう。すでに「帝国主義論」で現代(20世紀初頭)の資本主義の分析をおえているので、次は国家を廃絶する道筋を明らかにしようとする。まず国家は経済発展のすえ社会階級が生まれ、搾取者が被搾取者を支配するための道具であるとする。最初は王権や宗教宗主などが搾取者のトップにあったが、現代(20世紀初頭)では資本家とそれに結託する代議士が国家を牛耳っている。彼らは官僚と常備軍を使って、被搾取者を支配するのだそうだ。このような国家は民主主義をたてまえにしているが、うそっぱちだ。なぜなら被搾取者は政治に関与できないではないか(当時は、一定額以上の納税をしている定住の男子のみが選挙権/被選挙権をもっていた)。
そのような抑圧体制を打倒するには、「武装した労働者」が蜂起し、国家の搾取構造に寄生するこれらの搾取者を一掃しなければならない、のだそうだ。まあ、少数の搾取者をトップに大多数の被搾取者がボトムにいる帝国主義のピラミッドを「革命的」に転倒するわけですな。このとき武装することは許されるかという問題があるが、「共産主義社会の建設は労働者の使命」(エンゲルス)だそうなので無問題、だそうだ。こうしてブルジョアとその寄生者を排除すれば、労働者の自主管理・自主運営の組織ができ、搾取で成り立つ「国家」は消滅するという、いや廃絶するという。
でもって、大多数の「武装する労働者」がこれまでの生産労働や事務作業を代行するわけだが、仕事が停滞しないかというと、意識した「武装した労働者」は労働とは別に自発的・意識的に政治に参与するのでこれも無問題。そのうえ、下級官僚は蜂起の暁には、労働者の側に転向するので、彼らの力を借りられる。労働者が生産過程を管理することによって、労働と趣味の区別が無くなり、搾取/被搾取の問題はなくなるそうだ。
※ そういう労働観は、たとえば ウィリアム・モリス「ユートピアだより」(岩波文庫)に典型的にみられる。
制限選挙に基づく民主主義は廃棄される。ではどうやって労働者の政治問題や要求を反映するかというと、ちょっとあいまい。労働者の全員選挙と選抜された官僚の解任権をもっているからOKという話と、大多数の労働者が独裁体制をしき自発的意識的な労働者が政治に参与するという話がある。よくわからんが、そうすると議会や選挙なしでも労働者の政治問題や要求が汲み取られるそうだ。
※ このようなボリシェヴィズムの民主主義に対する批判がハンス・ケルゼン「デモクラシーの本質と価値 」(岩波文庫)
このあたりが「国家と革命」の要点かな。こうやってまとめてみると、ソ連型共産主義の問題や失敗がここにすでに含まれているのがわかるよね。レーニンは亡命後スイスに住んでいたが、40代半ばまでよくいってジャーナリスト、悪く言うと無宿浪人であって、企業管理や行政の仕事を見たわけではない。なので、経営や行政におこる大小の、些末だが放置すると運営に支障の出る問題(生産計画、資源調達、生産品の分配方法、生産機材のメンテナンス、人事評価、予算実績管理にリソース管理、経理と資金調達、広告宣伝にIR、クレーム処理、など)の見通しが甘い。同様に行政も詳細を知らないだろう。三権分立はブルジョア民主主義のシステムだから当然プロレタリアート独裁では消滅していて、行政や立法から独立した司法はない。ということは警察と裁判の公平性も担保されない。ま、実際にレーニンを首班とするソ連政府は、乱立するこれらの諸問題を労働者の政治参与で解決することはできず、軍隊による強権的な押しつけと秘密警察による監視で強制的に「解決」したのだしね。
※ たとえば、アレクサンドル・ソルジェニーツィン「ガン病棟 上」(新潮文庫)など。
それにくわえて、「武装する労働者」という概念と実際の生活者の間を埋める方法も。自発的・意識的な労働者になれば労働に政治に積極的に関与していくというのだが、人は疲れてしまうよ。だから、レーニンたちはただの労働者が「武装した労働者(革命家)」になるように延々と叱咤する。どこまでいけば理想の、あるいは革命とその後の体制に適応できる「武装した労働者」になるかはこの本には書かれていないので、決して到達することはない。ブルジョア権力を打倒しても、革命はいつまでも続くことになるのだよね。地域や業種によって要求や要望、達成するミッションは異なるので、利害を別にするさまざまなグループから出てくる政策は調整が必要になるのだろう。「革命」を継続し社会に混乱をもたらす行動の正当性とかさざまな要望や利害の調整はどこがどのようにやるのか。きっと、この本には書かれていない「党」が担うことになるのでしょう。大多数の労働者を組織した「党」は、その存在がそのまま労働者の要求や理想を具現化しているのだ。そこでは民主化も選挙も不要になりそう(ここらへんは「共産主義における左翼小児病」に書かれているのかな。読んだけど記憶がない)。うーん強力な官僚制の壁とピラミッドができあがり、責任の所在があいまいになる仕組みになりそうだ。あと(工場)労働者以外の生活者がここには登場しない。農民、漁民、サービス業はどうなるのかな、教育や研究をする人は、さまざまな公共サービスにかかわる人もどうなる。民族(ネーション)もここでは考慮されていない。少数ネーションの労働者他は、大多数のネーションに統合されなさいということかな。
共産主義社会には複数のステップを踏んで最終形に到達するらしいが、ここでもやはり新規事業や公共サービスなどを行う資本をどうやって調達し、どのように配分し、事業の責任をだれがどのように取るのか、はっきりしない。「労働者」の共同所有というのはスローガンとしてはそうかもしれないが、「〇〇市の製造業」「〇〇地方の発電所」みたいな具体に降りてくると、責任と管理の所在は個別に決めると思うのだが、どうなんだ。この本だと、どうも「中央」とか「幹部」とか「党」がしゃしゃり出てくるのではないかと思う。そして、組織の不効率と不合理を改善することがなく、生産性の低い事業と公共サービスになりそうだ。共同所有とか社会全体の資産というのはかっこういいスローガンだけど、無責任と無監査の言いかえだよなあ。
という具合に、すでにたくさんの人が指摘している欠点、弱点、悪口を延々と書くことができる。いつもはこの種の共産趣味文献は笑いながら読むのだが、こいつだけはうすら寒くなりながら読みました。自分はソ連型共産主義と、マルクスやレーニンの綱領を持つ組織には嫌悪しか感じないのだが。それを再確認しました。1917年に書かれ、国民文庫版では1919年の「国家について」という講演も収録。中身は「国家と革命」と大同小異。
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しばらく前に仙谷由人さんが「自衛隊は暴力装置」と発言して話題になった。すでに、ウェーバーやレーニンが「国家は暴力組織(装置)」といっている。その該当箇所を紹介。