odd_hatchの読書ノート

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ロレンス・スターン「トリストラム・シャンディ 下」(岩波文庫)第8巻 トリストラムは忘れられ築城術にしか興味がない叔父トウビーの恋物語が始まる

2023/11/09 ロレンス・スターン「トリストラム・シャンディ 下」(岩波文庫)第7巻 物語は突如中断してフランス旅行記が挿入される 1765年の続き

 

第8巻。第7巻の回り道の後、叔父トウビーの恋物語が始まる。隣家の未亡人がトウビーに一目ぼれして、日がな一日たむろしている歩哨詰所に押しかけ、色仕掛けを使った。でもトウビーは築城術と攻防戦にしか興味がないから、夫人の思惑がわからない。父も不安でトウビーが何ごとかやらかさないか心配だ。というストーリーはあとからふり返ってわかるわけで、例によっていったりきたりの連想で話は脱線してばかり。穿ってみれば、20世紀以降の娯楽のない時代、おしゃべりは楽しみであり、集まってはくっちゃべっていた。そのリアルであるのかもしれない。おしゃべりはなにか目的があるのではなく、単にしゃべることが大事なのだ。その作法を小説に取り入れたので、こんな作になる。本人もこういっているのだし。

「まず最初の一文を書きます――そしてそれに続く第二の文章は、全能の神におまかせするのです」

 この巻のテーマは性欲。イギリス紳士淑女の嗜みでは性について語るのはマナー違反。でも性を語らないわけにはいかないので、このように韜晦した、比喩ばかりの会話になるのだ。それを打破して性を性の言葉で書くことは政治的主張になりうる。ほぼ同時代からしばらくあとのフランス知識人は絶対王政下で性愛文学を書いた(ミラボー伯、サドなど)。そのリアリズムは封建制を打倒する革命気運を醸成する一助になった。でも市民革命を経験しているイギリスはそのような社会変革思想は不要であるので、性の革命文学はこの150年後の20世紀初頭まで待たなければならない(まあ、アングラ出版では19世紀半ばからあったが)。

第1章 6巻の終わりで直線で話をすると誓ったのですから、ちゃんとやりましょう・・・
第2章 私のやり方は「まず最初の一文を書きます――そしてそれに続く第二の文章は、全能の神におまかせするのです」。
第3章 私は偽善者が大嫌いです、と言って悪口雑言をマシンガントーク(という比喩は当然当時にはない)
第4章 恋愛も密通も同じという人がいるけど、トウビーにはあてはまりません・・・
第5章 酒を飲まず水しか飲まないような人には書物は味わえませんわなあ・・・
第6章 トウビーは水しか飲まないような人ではなかったし、人が言うように足がやせ細っているわけでもありません・・・
第7章 「肝腎な目の前の話のほうを、まつすぐに先に進めるようにしましょう」
第8章 トウビーの館には家具がなかったので、あの突撃の後(第6巻)、ウォドマンの後家のベッドを借りることになったのです。後家さんは「まったくの申し分のない女」でして・・・
第9章 ウォドマンの後家の下着がどうこうで、ま、後家さんはトウビーに惚れてしまい・・・
第10章 「当時叔父トウピーの頭にはほかの事が一杯つまっていました。」
第11章 でもトウビーは惚れなかったのでして、私はそのことにイライラして、おっと四文字言葉を書いてしまいましたなあ・・・
第12章 「あんなものには手もふれない」(それは私のことかトウビーのことか)
第13章 恋とは誠に面妖なものでして、父が申すには、いえそんなことはおいておくとして・・・
第14章 とはいえ運命の女神たちは二人の恋が進むようにいろいろ手をまわしていて・・・
第15章 「人間も蝋燭と同じで、頭からでもおしりからでも火をつけることができるということです」。で、どっちから火をつければいいかというおバカ話
第16章 ウォドマン夫人のやり方はトウビーの歩哨詰所に押しかけ、地図をみながら質問すること。そうすると地図を指すトウビーの指が夫人のそれと触れそうになって・・・ということを軍事作戦のように描写。
第17章 こんなことがわかるのも父が遺品に残していたからです・・・
第18章 トウビーは砦と歩哨詰所を閉鎖したかったがそうもいかなくて・・・
第19章 トリム伍長がなぐさめに「ボヘミア王と七つの城の話」をしますと提案。「むかしボヘミアに一人の王様があって」と話し出すと、トウビーが茶々を入れるので、その先に進まない・・・
(トウビーのチャチャは以下の通り。帽子をかぶれ、西暦何年のことだ、1712年というのはよい年だ、軍人たるもの地理にあかるくなくてはならんたとえば、ボヘミア王は不運だったのか?、たまたまというのは物語に不可欠じゃ、恋をしたことがあるのか、一番痛みを感じるところはどこか)
第20章 トリム伍長がひざを負傷した時、若い尼僧に介抱してもらった話。でも恋はなかったのです。そんなことはないだろう、とトウビー。
(ウォドマン夫人が立ち聞きしていて、二人の会話に闖入)
第21章 恋はめぐりあわせなのです、と伍長。
第22章 二週間後にはだいぶ良くなってきて、その時若い尼僧がひざをさすってくれて。最初は二本指、それが三本、四本と指が増えていき、それで恋に落ちていき・・・
第23章 伍長に命じて歩哨詰所に会った荷物(地図を含む)を撤去させたので、夫人は新しい攻め手を胸に描いたのです。
第24章 夫人はハンカチを目に当てて、塵か砂が目に入ったようです、トウビーさん見てください。トウビーおじさん、身の破滅ですぞ(と語り手がキャラクターに声をかけるという小説内レベルの破壊)
第25章 目は野砲と同じくらいの破壊力がある。叔父トウビーも囚われの身になってしまって・・・
第26章 父も同じようなことがありましたが、父は目を嫌悪したものです。それに比べると叔父トウビーは従順でした。
第27章 「わしは、伍長、恋にかかった!」叔父トウビーは言ったのです。
第28章 トリム伍長「あの奥さんなら隊長どのの前ですが、空を飛んで逃げることもできないし、城攻めに抵抗などできやしないでしょう」(何というズレた、しかし伍長らしい返し)。一方夫人は大尉(トウビー)の鼠径部に傷があることが心配。下女は伍長から聞き出しますわと返事。
(訳者は「鼠径部」と訳しているが、これは不能じゃないかと夫人は心配しているわけ。当時のモラルだと性のことを話すのははしたないので、こういう表現。)
第29章 トウビーは伍長に命じておめかしする
第30章 トウビーと伍長は軍服を着て、夫人と下女を訪問しようとする。で襲い掛かろうと伍長が計画。
(1760年代の小説です)
第31章 父は禁欲主義なのでこのようなはしたないことはしませんでしたが、私は道楽馬、いやロバだったかな、のいくままに筆を走らせましょう。
第32章 そのあと父や母、医師や牧師がいる席で、トウビーに恋をしているかと婉曲にたずねると、トウビーは自分の体の具合を大真面目に答えて・・・
第33章 トウビーは結婚して子供を持ちたいですなあというので、父はでは世話しようといいだし(父の衒学趣味は牧師や医師のオタク趣味を誘発して話がどこかに行ってしまいそうになる)・・・
第34章 ウィドマン夫人には気をつけるようにと覚書をトウビーのために父は書き・・・
(トウビーが不能ではないかという父の危惧に母はうろたえ、ペダン派の尼僧と恋に落ちたことがあると聞いて牧師は怒りだし(異端なので)というギャグがある)
第35章 というドタバタの翌日、トウビーと伍長は夫人のところに「出撃」することになり・・・
(この先は「第八巻の末端などに押しこむには少をもったいない」ので、次の巻で。

 

 18世紀の文章の特長は、書いてあることと心理は一致していること。なにごとかの陰謀を隠していたり、いやいやながら付き合っていたりということはない。内面はあるけど、他人とのコミュニケーションで本心を隠すということはないのだ。
 内心と言動の不一致という主題は19世紀になってから発見される。たぶんフローベールのようなフランス作家からだと思うが、自分はエドガー・A・ポーを思い出す。


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2023/11/06 ロレンス・スターン「トリストラム・シャンディ 下」(岩波文庫)第9巻 トウビーは攻城戦に勝利し、トリストラムは負のスティグマが増え、父はメランコリーにふける 1767年に続く