odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

柳広司「贋作『坊っちゃん』殺人事件 」(集英社文庫) 政治的に中立な人が探偵すると権力のスパイになる

 前回の初読で大感激した。それから14年。もういちど同じ気分を味わおうと、再読した。サマリーは前回の感想を参照。

odd-hatch.hatenablog.jp

 幻滅、失望。
 理由はふたつある。
 ひとつは漱石の小説を全部読み直したこと。その結果、夏目漱石も坊ちゃんもこのミステリに書いてあるようなキャラとは思えなくなっているから。例えば、坊ちゃんを迎えた四国の温泉町の人は彼のふるまいに度肝を抜かれ関心を持ち立ち居振る舞いに影響された、ということになっている。得体のしれないまれ人が生産性を失い混とん状態の共同体を救う可能性をみようとする。まるで任侠物の主人公か流れ者のガンマンみたいじゃないか。まあ、よくあるヒーロー像ではあるのだけど、坊ちゃんの行動性向だと、そのような関心を向けられると、むしろ自閉するのだよ。「坊ちゃん」の後の小説のキャラが、世間から関心を向けられないように引きこもりに向かったのを思い出すように。
 もうひとつは、明治維新後のこの国の歴史を勉強したこと。そうすると、小説の温泉街は民権派社会主義グループが暗躍している危ない都市であるが、大多数の住民は政治的な旗幟を鮮明にしないノンポリの集団とされる。その見方は実際の20世紀のゼロ年代と一致していない。すなわち、大多数の住民は戦争に賛成して天皇の存在を空気のように感じている臣民になっている。戦争継続は賛成で三国干渉に不満をもち皇軍の活躍に喝さいを送るのだ。それに民権派の運動は1880年代の弾圧で消滅している。普選運動などの民主化要求は都市のインテリや中産階級が担うもので、社会主義運動は貧民や労働者、一部のインテリで勃興しつつあるものだった(この小説で労働組合運動がないのはちょっとまずい)。なので、夏目漱石の「坊ちゃん」に書かれていない世間や社会や国家を外挿する試みであったが、外挿されたものは実際のこの国にはないものだった。フィクションをリアルに寄せようとしたら、リアルと思っていたのがフィクションだったのだ(そのフィクションはこの国の教科書の記述に沿っているので惑わされる人は多そう)。
 フィクションにフィクションを外挿するのはまあエンタメにはあること。そこに目くじらは立てないが、「坊ちゃん」の探偵は自立しているようにみえて、実はそうではない。「坊ちゃん」が温泉街にもどったことによって、民権派社会主義グループも摘発されて運動はどちらも壊滅する。権力や体制からすれば、手を汚さずに目論見を達成でき、大笑いしているだろう。坊ちゃんは無意識にスパイになったのだ。どの政党や党派にも染まっていないようにみえたので、堀田他が利用したのだ。そのうえ東京に帰った後、彼は四国の温泉街のできごとを一言も語らず、何ごともなかったかのように街鉄の技手として暮らしている。これこそスパイの最もあるべき姿ではないか。「坊ちゃん」が民権派の主張も社会主義の思想にも染まらずにスパイになったのは、すでに皇民教育の申し子として臣民になっていたからだ。彼がことばや思想を知らないのは、知らなくても生きていけるように皇国イデオロギーが身に沁みついていたからだ。坊ちゃんは民権派にも社会主義にも背を向けたので、非政治性があるという。そんなことはない。彼は探偵をしたので、権力や体制の走狗になったのだ。
 小説のような民権派社会主義グループが国家転覆や社会壊乱を目しているというフィクション・陰謀論は権力や体制には好都合。社会変革を求める民衆運動を「危険」「恐怖」とみなして、民衆を運動からそらそうとする。かわりに警察の民衆弾圧や大政翼賛の全体主義運動には批判を向けないし、他人を批判に向かわせない。解説の三浦雅士は坊ちゃんと夏目漱石の非政治性を指摘するのだが、帝国主義全体主義の国家では非政治的であることはおのずと権力や体制の側にあることを意味するのだ。民権派にも社会主義にも与さないということは政治的に中立であるのではなく、体制や権力の無条件の支持になるから(政治的に中立になる場所を三浦は「文学空間」というのだが、それは評者の脳内にだけありうるフィクションで妄想)。
 推理小説やミステリはゲームだから非政治的だと解説者はいうが、ゲームになるのは権力や体制の庇護にあるから。デュパンやホームズが好き勝手に動き回り、警察の裏をかく/うえを行く推理ができるのは、彼らのスタンドプレイを権力や体制が黙認しているから。「探偵」はフィクションでもリアルでも「この世の次元のひとつ上の次元に立っている(解説者)」ことなどできないよ。「坊ちゃん」が無意識に帝国のスパイになったように、作家も解説者も進んで国家の御用になってしまっているのかも。
 という具合に、終始「あーあ、そうじゃない」と思いながら本文と解説を読んだ。

 


柳広司「贋作『坊っちゃん』殺人事件 」(集英社文庫)→ https://amzn.to/44j8dF6 https://amzn.to/4aQHmmu
柳広司「はじまりの島」(創元推理文庫)→ https://amzn.to/4dgph2Y
柳広司「吾輩はシャーロック・ホームズである」(角川文庫)→ https://amzn.to/4dbFAhp
柳広司「トーキョー・プリズン」(角川文庫)→ https://amzn.to/3xMhKbG
柳広司漱石先生の事件簿 猫の巻」(角川文庫)→ https://amzn.to/4aTkxyw
柳広司「百万のマルコ」(集英社文庫)→ https://amzn.to/4dfIqSr
柳広司「虎と月」(文春文庫)→ https://amzn.to/49VomBS
柳広司「キング&クイーン」(講談社文庫)→ https://amzn.to/3xVvVvi