過去に二回「猫」を読んでいて、いずれも退屈だったと記憶するが、今回の数十年ぶりの再読でも同じ。漱石の小説は全部(新潮文庫で入手できるものすべて)を読みなおしたが、「猫」がもっともつまらない。今回は「吾輩」が運動を始めると言い出したところ(半分あたり)でギブアップ。完読をあきらめた。
なので、感想を書く資格はないのだが、ともあれ気づいたことをメモしておこう。
・時代は旅順陥落の前後。それにしては「苦沙弥」と猫のまわりには戦争の様子がない。彼らは新聞で戦況を知るばかりで、はるか遠くのできごととして自分には無関係でいられる。WW1の総力戦より前の戦争では戦場にならないかぎり生活への影響は少なかったと見える。そのうえ戦争の終結は賠償金の支払いで決まることであった。これも古い19世紀の戦争のなごり。なので日露戦争で十分な賠償金を得られなかったとき、国民の反発が発生したのだった。以後、戦争の終結は賠償金の支払いで決まるのではなく、敗戦国の政治体制の変革で決まるようになり、国民の感情爆発は見られなくなる。
・猫の「吾輩」は「およそ世の中に何が賤しい家業だと云って探偵と高利貸ほど下等な職はないと思っている」という。この場合の「探偵」は、ホームズのような探偵であるより時代背景から戦争スパイのこととみたい。「露探」という言葉がメディアで使われ、スパイ摘発のプロパガンダがあった。漱石には権力嫌悪の傾向があり、この言葉に権力批判が含まれている。
(柳広司「夏目漱石先生の事件簿 猫の巻」(角川文庫)の読み方では、労働運動や社会主義運動を監視する公安のような密偵のこと。)
・「苦沙弥」はこの後の小説にでてくる妻帯者の原型。冷笑、癇癪、やせ我慢、移り気、根気なしの俗物。共同体になじめない一方で、家族には厳しくあたる。ミソジニーでルッキズムでパターナリズムの持ち主。彼の行動性向は「門」「彼岸過迄」「行人」「道草」などの家長と同じ。
・漱石の妻帯者は一軒家に住んでいるが、父母や叔父叔母などの係累はいない。彼らはそれぞれ家を構えていて、妻帯者と生活をともにしていない。ときに暮らしや結婚などに介入することもあるが、一緒に暮らすことはない。明治の日本では珍しい核家族を作っている。嫁姑問題などの家族関係や親族関係から解放されている。それはWW2の戦後の日本の家族と同じなので、「国民」を描いた小説とみなす理由になっているのだろう。
・猫の「吾輩」はこの後の小説にでてくる男性独身者の原型。理屈っぽく、筋を通すことが重要で、ささいなことにこだわりを持つ。冗談がつうじなくて、言葉をそのまま理解しようとする(慣用句を理解できない)。他人への共感に乏しい。「坊ちゃん」「草枕」「坑夫」「三四郎」などの主人公と同じ。
・それでも猫の「吾輩」は他人や社会への批評をさかんにする。俺には皮相にすぎるし、過度な相対主義であるしで、感心するようなものではない。それは置いておくとして、この批評や感想は「苦沙弥」「寒月」「迷亭」などの長広舌の合間にはさまれる。この書き方はのちの小説でも同様。なるほど、この後の漱石の小説は猫の「吾輩」がいなくなった「吾輩は猫である」なのだ。誰の感想や批評なのかわからない地の文の饒舌は不在になった猫の「吾輩」がやっていると考えればしっくりくる。
(漱石の後期の小説は、存在を消したのに文体に現れてしまう猫の「吾輩」をいかに消すかという苦闘になる。「こころ」のように一人称にすれば問題は生じないが、三人称になると「吾輩」が登場していまう。どうにか消すことができたのは「それから」から。)
・このように、「猫」は夏目漱石の小説の方法の基礎。これをいろいろ変えることで、のちの小説ができていった。
「苦沙弥」も彼の取り巻きも猫の「吾輩」もモッブ(@ハンナ・アーレント)の一員であるのだが、この作の感想で書きたいことはない。漱石のモッブはこの後の「三四郎」の感想などで確認してください。
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なお、「猫」も「坊ちゃん」同様に解決されない謎がある(という)。例えば「三毛」はなぜ死んだのかとか、山の芋が盗まれたのはなぜかとか。そういう断片を集めて再解釈しようとする試みがある。
2019/11/14 奥泉光「『吾輩は猫である』殺人事件」(新潮文庫)-1 1996年
2019/11/12 奥泉光「『吾輩は猫である』殺人事件」(新潮文庫)-2 1996年
2019/11/11 奥泉光「『吾輩は猫である』殺人事件」(新潮文庫)-3 1996年
2022/02/14 柳広司「漱石先生の事件簿 猫の巻」(角川文庫) 2007年
あたしはそういうことをする根気がないので、好事家の書いたこれらの小説を読むまでにする。