odd_hatchの読書ノート

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岡崎勝世「聖書vs世界史」(講談社現代新書) 普遍史は聖書の記述に基づいて書かれた世界史。聖書より古いエジプトや中国の歴史にとまどう。

 普遍史(ユニバーサル・ヒストリー)は聖書の記述に基づいて書かれた世界史。普遍史がかかれるようになったのは、古代ローマ時代で異教とされていたころ。キリスト教護教のために正当性を明かすために書かれた。以後、さまざまな教父が普遍史を記述してきた。特に参照されたのはモーセ五書とダニエル書。天地創造がゼロ年で、そのあとノアの箱舟だの、モーセのエジプト脱出だの、ソロモン王の治世だのが何年に起きたのかというやり方で歴史を記述する(現在からさかのぼって〇年前という方式を取らない)。すでに知られている史実も歴史に組み込まないといけない。
 ここでやっかいだったのは、どの聖書(ヘブライ語原典かギリシャ語訳かラテン語訳か)を使うか、どの書の記述を優先するかで年代がさまざまになったこと。そのために多様な意見がでて、創世記紀元では年代がなかなか一致しなかった。もう一つの問題は、聖書記述ではエジプトやアッシリアペルシャなどの歴史をどう扱うという問題があった。他の歴史書を参照すると、これらの歴史は天地創造よりも古いものになってしまうから。


 普遍史を書くことが困難になってきたのは14世紀ころから。東西交流が始まって、東の情報が入り、キリスト教世界だけがあるのではなく、また異邦にも道徳と知性に優れた民族や社会があることがわかってきてため。以後、ルネサンスに宗教的世界とは別の論理で動く政治的世界があると主張されたり、宗教改革で新教が聖書の記述の矛盾をあいまいにしないようになったり、大航海時代で新大陸に「人間」を発見したり、中国の歴史の古さと記述の正確さ(モース五書のような伝説がほとんどない)に圧倒されたりして、普遍史の試みが危機になる。
 普遍史が決定的に終わったのは18世紀の啓蒙時代、科学の時代。ニュートンヴォルテール、ドイツの聖書学者があいついで理性の歴史、発展史観、地球大の規模の歴史、文明の多元的発生を含める世界史を書くようになってから。このころには創世記紀元の年代からキリスト紀元の年号(最初に提案されたのは6世紀)に変わった。キリスト紀元から宗教的意味を廃棄し、聖書は聖典から文献に変わった。歴史記述から神話や伝説が除かれた。
 というのが超圧縮した普遍史の歴史。2~300年前に廃棄された歴史記述の方法。それが俺にはとてつもなくおもしろかったのは、ヨーロッパの文芸や科学などに大きな影響を与えているから。たとえばダンテ「神曲」には天地創造から「神曲」の現在までの年数が書かれているとか、ルネサンス期から世界地図がいくつもつくられているとか、カントが宇宙と地球の起源を説明しているとかが、いずれも普遍史の影響下にある。博物学の図鑑が大航海時代からたくさん作られているのも普遍史による地球把握の欲望によるもの。新教の聖書読解が聖書学を文献学に変える(でもプロテスタントの「聖書にだけ権威がある」という考えは極端な原理主義のカルトを生むことにもなった)。

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 このように歴史記述をどうするかは文芸と科学にも重大な影響を与えていた。点で知っていた知識を線でつなげる補助線になりました。妄想すると、地球と生物の変動や「進化」が主張されるようになったのは、普遍史が廃れて、別の動因でこれらの現象を記述しようとする意図からではないか。啓蒙主義時代に、カントやエラスマス・ダーウィン、ライエルなどがこれらを主張するようになった。その集大成が息子チャールズ・ダーウィン
 ここで重要に思うのは、中世の普遍史ではキリスト教社会の周辺や域外にいる人たちを「化物」として描いたこと。異様な風体(耳が巨大だとか一本足だとか逆立ちして歩いているとか毛むくじゃらとか)をしている人間を幻想していた。彼らはキリスト教の知識をしらない野蛮で遅れた人で、教化する対象とされた。それが新大陸の発見などで、キリスト教社会の周辺や域外にいる人たちに理性や道徳があることが分かった。そのさいにヨーロッパは彼らを遅れた人、キリスト教に改宗させなければならない人とした。それはおそらく16世紀からの黒人奴隷売買と強制労働を正当化する理論になった。平野千果子「人種主義の歴史」(岩波新書)などでは人種主義の最初を黒人奴隷貿易にみているが、もっと前からあったとみることが可能。人種差別の歴史は古い。

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 さて普遍史は啓蒙時代でほぼ捨てられたが、一般書や啓蒙書では19世紀でもヨーロッパで流通していた。明治政府は開国後の歴史教育普遍史を採用する。「パーレー万国史」の翻訳を教科書に使った(開巻冒頭で人間は5つの人種に分かれるという内容)。普遍史を教科書に採用する数少ない国の一つになった。この教科書は大日本帝国憲法発布のころには使われなくなって、文部省が検定した教科書になったようだ。この先を著者は書いていないが、俺が妄想するに明治政府の歴史教科書は普遍史の方法を採用している。古事記日本書紀記紀神話が歴史の冒頭に書かれている。その点では、日本の歴史教育はほぼ宗教教育を変わらなかった。戦後、神話を事実とする教科書や歴史書は書かれなくなったが、今でも極右は宗教的な歴史観を持っている。

 日本で普遍史にあたるのが、「皇紀」。皇紀は中国の讖緯(しんい)思想による辛酉(しんゆう)革命(干支の60年が21回になるごとに革命が起きるという考え方:古事記が書かれたころは601年が辛酉の年)で、その1260年前に天皇が即位したと明治政府が明治5年1872年に決めた。そこから数えて2600年目が昭和15年1940年。その際に政府と軍部主導で記念式典が各地で行われた。
三浦佑之「古事記を読みなおす」(ちくま新書)-1
 西洋の普遍史と異なるのは、起源が決まっているので、天皇の在位期間や生没年を皇紀にあうように恣意的に設定したところ。合理性も論理性もない粗雑なものだった。当然江戸時代以前の書籍、記録ではまったく使われていない。そのうえ明治政府ですら使用していない。歴史記述や研究には全く使えない。でも、国体思想や国体神学に影響された人たち(ビリーバーさん)は、どうにかして史実と皇紀をつなげようとする。中国の史書の記述に合わせようとする。その結果、妄想が妄想を重ねる奇怪なテキストが生まれているのだ。さらに宗教右翼の議員は、皇紀(だけでなく教育勅語などの国体思想)を復活させようともくろんでいる。もちろんこういうのはつぶしましょう。

 

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