よくわかったのは、ヨーロッパはローマ帝国の遺風や遺産を強く意識していて、その後継者であることを誇りにしていること。たとえば皇帝はローマ帝国の制度において成り立つとされるから権威と権力をもてるのだ。しかも勝手に名乗ってはならず公的な手続きを経ないとならない。なので中世の諸侯は「皇帝」を名乗るべく権謀術策と戦争を繰り返したのだった。王様は各地にいたが、皇帝は数少ないのはそういう理由。
西ローマ帝国が五世紀末に滅亡したあと、ヨーロッパ(という概念は当時はない)に強国は現れなかった。何しろ深い森が覆っていて、開墾したわずかな土地に集住する部族社会しかなかったので。統一組織であるのは教会くらい。四大文明が水利がよくて平坦な温暖地にできたのとは大きな違い。それでも数世紀もした8世紀にはフランク王国ができ、10世紀にはドイツに神聖ローマ帝国ができる。なぜ神聖かというと、キリスト教化した土地にできた世俗権力は教会に承認されることを欲したからであり、ローマ帝国を継承するという意思があり、皇帝が統治する帝国であるから。当初はドイツ、ブルゴーニュ、イタリアを包含する帝国であった。しかし男子均等相続の掟により、創始者が亡くなった後三分割された。そのあと、ついに再統合することはなかった。
本書の大半は、ドイツのさまざまな王朝が覇権をめざして奮闘することの記述。そのアクションの涙ぐましいこと。しかしどの一人として成功することはなかった。いくつか理由がある。ゲームプレーヤが多数。ブルゴーニュ、イタリアの諸侯が対抗し、ローマ教会の教皇がちょっかいをだしてくる。そのうえ中世から近世にかけては諸侯を名乗っていても部下や家臣たちが終生の忠誠を誓うことはなく、契約を破棄して別の諸侯についたのだった。諸侯は独自の権利を持っていて王による統合に反対する。皇帝を名乗るには、教皇による承認が必須であり、教皇と対立していては決して皇帝になれない。(以上は中世期の様子。これらの政治の動きの背後には、技術革新と農業生産性の向上、ペストなどによる人口減少、貨幣経済の浸透による諸侯の窮乏、十字軍の負担などがあるがここでは詳述されない。別書で補完しましょう。)
14、15世紀になると帝国を作ることは困難になり、諸侯国連邦国家になってしまったが、それを樹立するために諸侯には特権を与えることになった。その重要な権利は貨幣の鋳造権。収入不足と物価高にあえぐ諸侯は貨幣を乱造し、インフレを起こして自分の力を弱めた。(トンデモ本のアンドルー・トマス「太古史の謎」(角川文庫)が中世の錬金術を書いている。その妄想批判はリンクに書いたが、ゲーテ「ファウスト」を例にした事態は中世末期にあったのだね。)
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16世紀になると宗教改革運動がおこり、領土内で長い内戦がおこる(宗派間の対立以外に、教会領を領主に転換する世俗化が起きた)。イギリスがいち早く近代が始まり、フランスでは中央集権制国家が登場する。領邦国家連合のドイツはもはや対抗できない。スイス、ネーデルランド、スペイン、スウェーデン、デンマークなどの周辺が連合国家から離脱する。領主に特権を大幅に認めるウェストファリア条約(1648年)で帝国建国を断念する。それまでヨーロッパは、帝国を通じて単一の正義と秩序を確立するという普遍主義を共通の理念にしてきたが、ここで崩壊する。
(片山杜秀「革命と戦争のクラシック音楽史」(NHK出版新書)で補足する。ウェストファリア条約以後、神聖ローマ帝国の領邦は帝国の意向を無視して独自路線をとる。その中で、18世紀のプロシャの啓蒙君主ヴィルヘルム一世と息子フリードリヒ二世は富国強兵策を取り、国内に軍人養成学校を作り、傭兵の代わりに「国民兵」制度を取ろうとした。殖産興業もうまくいき、プロシャは拡大し、戦争にも強い。それに対抗するために、ハプスブルグ帝国のマリア・テレジアとヨーゼフ二世も宮廷の歳費を減らして富国強兵策をとった。「ドイツ」はこの二か国の軍拡競争に巻き込まれていく。片山はこの時代を幕府の権力が衰え、諸藩が独自の政策をとるようになった幕末に例えている。)
さらにフランス革命後に現れたナポレオンは教皇の承認など無視して、自分で勝手に皇帝を名乗る。中世的皇帝理念を壊す(著者は解放したという)ことになった。
(もう一つ重要なのは、条約締結のころに「領主の宗教が領民の宗教」になるという原則が立てられたこと。これは現在のドイツにも継承されている。ドイツの国家と宗教の関係が周辺国やアジアとも異なっている原因。)
2022/03/30 深井智朗「プロテスタンティズム」(中公新書)-1 2017年
2022/03/29 深井智朗「プロテスタンティズム」(中公新書)-2 2017年
「神聖ローマ帝国」が実体あったのはわずかな期間だった。でも理念は長いことヨーロッパを呪縛していた。それを壊したのが近世の絶対王政。それまでは諸侯の上に立つ王といえども諸侯の権力を取り上げることはできなかったが、絶対王政は諸侯の上に立つ領土全体の最高権力者になった。かわりに普遍主義を捨てたので、ヨーロッパを統一する帝国になろうとはしなかった。
ヨーロッパの普遍主義は帝国を通じて単一の正義と秩序を確立するというもので、上にみたように17世紀には終わった。しかし普遍主義は終焉したのではなく、資本主義になって中身を変えて存続した。神聖帝国の代わりに、資本主義による世界経済システムが正義と秩序を確立するとしたのだ。歴史の担い手が諸侯・領主・聖職者などから資本家や職業組合や官僚などに代わったのがその背景。新しい普遍主義はヨーロッパの統一にはむかわない。世界を分割して植民地化する帝国主義になった。その基盤にあるのが世界システム。
(普遍主義は政治だけでなく、歴史にもある。聖書のとおりに歴史を記述しようとする普遍史(ユニバーサル・ヒストリー)の試みがあった。普遍史は親権政治理念が崩壊し、世界システムがヨーロッパ域外の知識を持ち、科学の成果が出てきて崩壊した。政治の普遍主義がなくなってから100年後のこと。)
という具合に、ドイツ地方の歴史を見たわけだが、日本の中世のいざこざ以上にややこしい。でも、これまで勉強してきたフランス史(いや堀田善衛「ミシェル 城館の人」で知ったくらいだ)や中世史の知識とつながったのは良かった。
さて、このように名称のみが残った「神聖ローマ帝国」であるが、20世紀に第二、第三の神聖ローマ帝国を名乗る政体が生まれた。1909年にできたドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟が自称したのが第二。そして第三は言わずと知れたナチスドイツ。どこからこの名を引っ張ってきたのかというと、19世紀末、プロシャ主導でドイツ王国が誕生した時、「神聖ローマ帝国」ブームが歴史学や言語学その他の学問であり、大衆に波及していたとのこと。遅れてきた帝国であるドイツはナショナルアイデンティティを歴史に求めることになったわけだ。自分は、神話や伝説を使ったのかと思っていたが、歴史も対象にしていたのだね。なるほどランケが「世界史概観」講義を行った際に「神聖ローマ帝国」の継承を意識させたのはそういう理由だったのか。
レオポルド・ランケ「世界史概観」(岩波文庫)
2024/06/06 レオポルド・ランケ「ランケ自伝」(岩波文庫) 戦前の教養主義が規範とするべき保守的な学究によるプライベートがまったく書かれない自伝。 1885年
あるいはニーチェのローマ好きもこの流行に由来するのかも。