odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

富原眞弓「ムーミンを読む」(ちくま文庫) シリーズを通じた家族の解体と再生。男性キャラはひがみやで空回りしてばかりで子供っぽい。

 トーヴェ・ヤンソンムーミンシリーズを「謎とき」風に読む。テキストに書かれていることを頼りに謎や意味を見出そうとする。過去に一通り読んだので、ストーリーのサマリーは作らず、読み達者による興味深い指摘を読む。なので、以下はそれぞれのストーリーを知らない人にはちんぷんかんぷんになるはず。

小さいトロールと大きな洪水 ・・・ 1945年。洪水は死と再生を表す。パパは家を空けて不在がちで、母と子は家を持たない。母と子がパパと家を探す物語。
ムーミン谷の彗星 ・・・ 1946年。戦争の余韻や痕跡がある。「自分から不安に向かっていけばワクワクする冒険になる(P33)」「ばくぜんとした不安に名前を与えると等身大のものになる(P35)」。これは精神障害発達障害を持っている人への好いアドバイス。スニフの変化に注目。ちいさいためにみそっかす扱いされるのに嫌け→小猫の発見→保護→友達を獲得して自尊心を回復。(なるほど、このストーリーでもっとも生き生きしていたのはスニフなのが納得できた)。親子の信頼関係を保った状況で行われる世界を救う使命を担った子供たちの冒険。冒険は救いをもたらさない。単に彗星が軌道をそれただけ。たいせつなものは偶然性にゆだねられている。
たのしいムーミン一家 ・・・ ムーミン谷の地図が作られる。川・海・塔のような家・橋などの象徴。中心にあるのは飛行おにのシルクハット。自分が願うものが何かを知ることがしあわせ(不安や不満はたいていこれで解消するよね)。ママはカオスにあこがれる。シルクハットが作ったジャングルはカオスで、裁判のコスモスと対比される。
ムーミンパパの思い出 ・・・ パパはセルフイメージを子供と共有したいので回想録を書いた(内容が真実であるかどうかは考慮しないこと!)。わざとらしい重厚な文体で書かれた(しかし20世紀初頭までこういう文体で大人はしゃべっていた)偉人伝のパロディ。パパは、自由・独立・友情・勇気と信頼・才能の自負・伴侶という徳を得て、自己発見の冒険が終わり、家庭に落ち着いた。
(この見立てはみごと。教養小説が「自由・独立・友情・勇気と信頼・才能の自負・伴侶との出会い」を個々にクリアしていく物語であり、伴侶と結婚したら「あがり」になって終わるのがよくわかる。そのあとには才能の成功(事業で儲けるとか発明するとか論文を書くとか創作するとかで名声を得る)し、社会の重鎮になる(政治家になるとか組合の会長になるとか)が続く。そちらは教養小説ではなく、ビジネス小説が担う。で、これらの徳は19世紀市民社会が徳とみなしていることにほかならない。市民(参政権をもつ人)になることが市民社会の要請であることを教養小説は示しているのだ。)
(ここにはママの冒険がない。嵐の海で溺れそうになっていたのをパパに助けられ、そのまま結婚する。その前のことはわからない。そうすると、家の外に出ることが許されなかった? あるいはママはパパが自立したことに対する報償の役目でしかない?)
ムーミン谷の夏まつり ・・・ 演劇的な物語で、「夏の夜の夢」。火山の噴火と洪水で谷から逃れた家族たち。劇場に残るママとパパ、ムーミンスノークの女の子、ちびのメイとスナフキンと子供たちの3グループによる冒険と帰還。台本通りの劇よりも即興的なパフォーマンスに人びとは魅かれた。自由なスナフキンは子供の世話をすることになってとまどう。
ムーミン谷の冬 ・・・ 北欧の冬は一日中暗闇。そこで目が覚めたムーミンは家族をあてにできない。ママの支援を受けられないムーミンはひとりで自分探しをする。さびしさとひみつをもつ楽しみができる。ムーミンは保守的で、財産の管理人風。なので、所有権に重きを置かない冬の暗闇の住人たちとはなかなかおりあえない。でも、むやみにあらがうのではなく、その力を認めた時に、ムーミンの共感力が発揮され、自分で頑張って自分で見つけることができるようになる(まあ、冬の住民たちはムーミンに敵対的な植民地主義者じゃないので、この教訓通りにしても危害を受けずに済む)。
ムーミン谷の仲間たち ・・・ 短編小説集は人物点描(ポートレイト)。ちびのミイに注目。彼女は自分であることに不安をもたず、わざと手厳しい言動に出て、よどんだ空気を吹き飛ばす。素早く状況を分析し、思ったことをてらいなく口にする。(ああ、ミイのような女性キャラはこの国の小説にはいなかった。それがこれまでの読みでミイの重要さがわからなかった理由か。ガキのときもミイは好きではなかったし。)
ムーミンパパ海に行く ・・・ それまでムーミン谷で大家族を作っていたムーミン一家がパパの憂鬱とからまわりで孤島に移住することになった。パパとママとムーミンとちびのミイ(養子)。それまでの役割とか立場が解消されたので、みな落ち着きを失い不安定になる。パパは自信と誇りを求めてうまくいかないので家に寄り憑かず、有能なママは狂気に近づき、ムーミンは相談相手を失って孤独になり、ミイは独立独歩で変わらない。彼らは島にいる他人(ムーミン谷からするとよそ者)とコミュニケーションで島の生活を受け入れるようになる。アイデンティティを求めて奮闘。ムーミンが〈もう一人の自分アルター・エゴ〉と向き合って成長する。それを支えるのがママの言葉(分析しがいのある長編。)
ムーミン谷の十一月 ・・・ ムーミン一家がいないムーミン谷。不在の家族に触媒されて変わっていく人たちの物語。ママが影の主人公。
(変化している人たちのうち、おれはフィリフヨンカに注目したが、本書ではホムサ族のトフトに注目している。この子は本を読んでいて他人とかかわらなかったが、森の「よそ者」とかかわって変化をおこしていたのだね。そこにスナフキンのアシストもあったのが小説的な仕掛け。)

 小学生の時はムーミンに同化しながら読んで(でも、みえっぱりで臆病なスニフのほうが好き。気の向くまま動いて他人に介入しないスナフキンは敬遠)、老年の入り口では家族のためになにかしようとしてドジばかりで空回りするパパに親近感を持ちながら読んだ。人生の諸相に応じて読み方が変わるのだが、ひとりで読んでいては落とすところがある。そこでもっと丁寧に作品に取り組んだ人の読みを参照する。
 そうすると、細部の読み落としに気づかされるのとあわせて、どこにフォーカスをあわせるかで参考になった。すなわち、俺は結果ばかりに注目しどうなったかを気にする。これは結末で作品全体を評価するエンタメ(とくにミステリ)の読み方。それに対して、著者は過程を重視する。シチュエーションが変わったり、はじめてのキャラと出会ったときにどういう反応をするかなど。これはシェイクスピアのような劇作品を楽しむときのやりかただ。これはリアリズムの読み方になる。過程を重視するので、キャラに起きる状況、キャラにはどうしようもない大状況にはあまり拘泥しない。彗星が衝突するとか、洪水で谷が水没するとかの災害や異変が起きても、その意味や神意などは考えない。「海に行く」で海や自然の不可解さをみて、その意味を問うことはしない。ミステリや冒険小説のようなロマンティシズムは取らない。観念で遊ぶこともしない。
 そういう読み方になるのは先にキャラ分析をしたから(「ムーミン谷のひみつ」1995年を先に書いている)。キャラに注目するとムーミン一家(パパとママと名無しのトロールとちびのミイ)の分析になり、著者はシリーズを通した家族の解体と再生をみる。その過程は上のサマリーを参照。
 興味深い、というか俺とは違う視点を持っているなあを関心したのは、著者はママとちびのミイとモランという女性キャラに魅力をみているところ。彼女らに有能さや自立をみているのだ。俺がガキの時に好きだった男のキャラは著者の目から見ると、移り気でひがみやで責任を引き受けないか責任を果たそうとして空回りする子供っぽいキャラなのだ。幼児期の名無しのトロールやスニフだけでなく、おとなのスナフキンやパパ、スノークやヘムレンさんもそう。シリーズの作者トーベ・ヤンソンは彼らに同化して自分を投影するけど、共感しているのは女性キャラなんだそう。こういう読みは男からは無理。とても参考になった。

 

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