odd_hatchの読書ノート

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フョードル・ドストエフスキー「後期短編集」(河出文庫他)-2「宣告」 神の掟と宿命論を踏み越えるための自由意志による行動を考える。

 


宣告 1876.10 ・・・ 「退屈のために自殺したある男、もちろん、唯物論者のある考察」なので、「罪と罰」のラスコーリニコフとスヴィドリガイロフ(とマルメラードフ)の自殺と対比するために、しっかり読もうと思う。

本文全文

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 と思って読み始めたら、これはドスト氏が批難する西洋主義や唯物論者を批判するために書かれたものだ。ドスト氏が「唯物論者」になりきって自殺が正当であることの趣意書を書く。その主旨を拾うと、こういう西洋の合理主義を徹底すると、自分がこの世に生まれた根拠や理由はないし、自然の「全体としての調和」を作る運動には参与できないし、明日にはすべてが無に帰してしまうから、生きる幸福に浸ることはできない。といって生きることに喜んで賛成する動物にはなりたくない。だから、自由意志を持つ人間として、

「おれは原告と被告、裁判官と犯人の紛れなき権能を行使して、かくも無作法にずうずうしくおれを苦難のために生み出した自然を、おれとともに破滅すべしと宣告する……が、おれは自然を滅却することができないから、おれ一個を滅ぼす。ただし、それは単に、責任者のない暴虐を忍ぶ味気なさから、のがれるためにすぎないのだ」

といって自殺を選択する。
(太陽の消滅と共に地球は消える。なので地上の生きるものはいずれ死滅し、生きる意味は究極には存在しない。こういうコズミック・ペシミズムは1870年代にすでに西洋に蔓延していたのだった。この世紀が憂鬱で無気力な気分が蔓延した理由だ。あとこの理屈は埴谷雄高「死霊」に登場する三輪兄弟が取り憑かれた思想。彼らも存在の意味を見出せずに自ら生きることを止める(構想であった)。あるいは運命論に抵抗するには、自殺するかこどもを持たないかしかないという考えを持っている。)
 続いて、ドスト氏は唯物論者の自殺論に反駁し、コズミック・ペシミズムとその由来である西洋主義・自然科学・唯物論が誤りでありデマゴギーであるとする。それは人類愛を殺す。ロシアには人間霊魂不滅の思想という崇高な人生思想がある。

「不死の観念、――これこそ生命そのものであり、生きた人生であり、人生最終の公式であり、人類にとって真理と正しい意識とのおもなる源泉である」。

 ソーニャやアリョーシャが反論するとこうなるだろうなあ。ドスト氏の考えはこのあたりにあったのだろう(そこからこの考えにまったく逆の「地下室の手記」やキリーロフを造形する想像力はすごい)。
 上の唯物論者のパロディでも、ドスト氏の所感でも、考えは〈この私〉と自然(宇宙)と神だけしかなく、間の公共空間や社会、国家の存在が無視されている。孤立化アトム化したモッブやダス・マンには〈この私〉と自然(宇宙)しか感じられないのだろうが、多くの人は人びとと生活し政治参加する自由があり、そこでは生きる意味がたくさんある。あんまり極端だけをみつめると、足元や手元のたしかに「ある」感じをつかみそこなってしまうよ。

 

 冒頭では自殺を考察するキャラとしてラスコーリニコフとスヴィドリガイロフ(とマルメラードフ)を挙げたが、ほかにもイポリート(「白痴」)、キリーロフ(「悪霊」)、スメルジャコフ(「カラマーゾフの兄弟」)、「おかしな人間の夢」の名無しの男などがいる。
 自分で自分を殺すことは神が実行を禁じた強い掟。それに背くことは神に対する挑戦だ。また神が未来の現象をすべて決めているという運命論からすると、宿命に背けるのは自由意志で自殺することだけ(と子供を作らない)。これも神に対する挑戦。人間が重力に桎梏されていて、自由・平等・博愛(同胞愛)を実現できないのであれば、人間と神の掟を踏み越えて「新しい人間」、神人になるしかない。そう考える人たちにとって、自殺は大きな問題なのだ。

 

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