odd_hatchの読書ノート

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荒畑寒村「ロシア革命運動の曙」(岩波新書) ドストエフスキーの解説には書かれないロシア史を読む。

 19世紀ロシアの革命運動の歴史を簡単にまとめる。前回は共産主義の立場から読んだ。
荒畑寒村「ロシア革命運動の曙」(岩波新書)


 今回は、ロシアの革命運動をドストエフスキーの目から見るとどうなるかという視点で見る。ドスト氏の小説の解説には、小説のアイデアになったいくつかの事件がでてくる。でもそれは運動の流れにあるものとしてはみない。単独で起きたテロやリンチの事件とする。ブルジョアや右派知識人からするとそう見えるのだろうが、運動の側からすると点ではなく線(それも複数の線が交差する複雑な)なのだ。
 近世ロシアの歴史はアレクサンドル一世が即位した1801年を開始の年とみる。西洋の技術や富に憧れ、ドイツ留学までする皇帝が行ったのはロシアの西洋化。工業を誘致し技術者を育成し官僚化を図る。そうすると貴族や地主の既得権益が奪われたり、保守派を怒らせたりする。ナポレオンの侵攻を阻止する祖国戦争に勝利するも、1825年に青年将校らによる皇帝暗殺未遂事件が起こる。厳密には革命運動とは言えないと思うが、ロシアの革命運動の最初とされる。この時期に、ロシアではふたつの思想が生まれる。ひとつはゲルツェンらの西洋主義。近代化西洋化を進めてヨーロッパに追いつこうというもの。これは30~40年代に社会主義自由主義が流行する元になる。もうひとつはスラブ民族主義。スラブにはヨーロッパにはないいいところがあるから西洋化は不要。むしろヨーロッパの個人主義・合理主義・唯物主義はロシアをダメにするというもの。のちの汎スラブ主義の端緒。1848年のパリ革命はロシア当局の危機意識になり、ウクライナ独立運動社会主義サークルの弾圧(ペトラシェフスキー事件)となる。アレクサンドル一世の次の次のアレクサンドル二世も啓蒙君主。1866年に農奴解放令をだす。この命令は貴族と地主を有利にし、農奴や小作・自作農には不利であった(耕作地が縮小、賠償金支払い発生、地代が増え、人権なし)。地主の行政機能が中央の官僚に移動。地主と小作や農奴のなあなあ関係がなくなる。このような貧困と格差に怒るものが増え、皇帝暗殺が何度も試みられる。1866年のカラコーゾフ事件が有名。1869年にネチャーエフ事件(同志リンチ殺人)が起こる。人民の中へ(ヴ・ナロード)というスローガンの運動がおこり、若者らが地方に行き宣伝活動を行う。これらのために官憲は政治犯や学生を大量検挙し、重罪に処す。1881年アレクサンドル二世暗殺。官憲の弾圧はさらに過酷になり、ヴ・ナロードは壊滅するが、反皇帝の革命運動は秘密結社化して潜伏し、テロを実行。マルクス主義の革命組織もできる。都市の労働運動が活発になる。1905年に「血の日曜日」事件。日露戦争敗戦。ニコライ二世は政治犯大赦を命じるが、革命運動は沈静化しない。このあとは「ロシア革命」タグに詳細あり。
(付記)
丹治愛「ドラキュラ・シンドローム」(講談社学術文庫)によると、1881年のアレクサンドル二世暗殺事件は容疑者がユダヤ人だったために、ロシア国内の反ユダヤ人政策になり、迫害と殺戮(ポグロム)となった。アレクサンドル三世はポーランドユダヤ人を強制移住させたので、その後の四半世紀で約100万人のユダヤ人が難民となって西ヨーロッパやアメリカに逃れた。多くは貧困で移動先の言葉を話せなかったので、西ヨーロッパで反ユダヤ主義を拡大する原因になった。とのこと。

 

 とくに指摘はしなかったが、ドスト氏の小説に関係する事件は載せた。ドスト氏はスラブ主義で土壌主義。ロシア正教を信奉する人びとによる共同体がロシアを救い、その影響を周辺に拡大していこう(異教徒や異民族はロシアに同化すべき)という考えだった。1881年に死んだので、その後ロシアの動乱を見ることはなかった。ドスト氏の晩年は、学生や知識人からは旧弊保守とみなされたが、それはこのような状況をみると納得する。ドスト氏の考えは社会を分断し、異民族や異教徒の差別を容認するものだったから。
 これをみると、同時代の日本が参考になる。帝政ロシアには憲法と議会がなかった。さまざまな階層や身分の不満を聞き解決する場所がなかった。市民が政治参加できる場所がなかった。政党もなく、市民の意見や利害を政治に反映する手段がなかった。それらが問題。そうすると近代化や西洋化は資本主義の確立、技術の導入、教育の拡大、官僚化だけではだめ。憲法、議会、表現の自由社会保障制度とセットでなければうまくいかない。
(日本の明治維新では憲法と議会は当初から国家目標にはいっていた。ブルジョア層の不満解消にはなった。指導者グループの離合集散があっても国家目標から消えることがなかった理由のひとつは、同時代のロシアの白色赤色テロの応酬を見ていたからではないかと妄想。同時に日本の国家目標に「反共」が加わることになった一因なのかも。一方で、ドスト氏が夢想した宗教と国家の一体化はロシアではなく、日本で実現したのだということになる。)
2024/07/19 坂野潤治/大野健一「明治維新」(講談社現代新書) 維新は4つの指導グループが連合・反目をしあいながら、「富国」「強兵」「憲法」「議会」を実現していった。 2010年

 

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