odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

ロマン・ロラン「ベートーヴェンの生涯」(岩波文庫)

 1902年に書かれたベートーヴェンの伝記、というかベートーヴェンに関するエッセイ。このとき録音機器は発明されていたものの商業化はまだまだであって、音楽はコンサートホールで聞くか、譜面を読むか、自分で演奏するか、という時代。交響曲第7番を実際の音で聞いたのは、作者が青年時代になってからのこと(ロマン・ロランはワインガルトナーの指揮を聞いたことがあるらしい。ワインガルトナーがマーラーと同年の生まれであるという古さをもっていながら、昭和の最初のころに新交響楽団を指揮しにきたことがあるというとおり、リアルな感じもあって、もはや歴史の人物であるロマン・ロランと交差していたことがなんとも不思議な思いをかもし出す)。そのため、作者にとってのベートーヴェンは、聞いて考えるのではなく、書物を経由して(ベートーヴェンを知っていたという人物を知っているという人がまだ生きていたのではあるが)認識するのであった。19世紀の終わりまでには、ベートーヴェンの作品全集や解説書、伝記が複数あったというのも驚き。モーツァルトよりまえの作曲家は死後、忘却―再発見されるという過程をへなければならなかったのが、彼から異なってきたのだった。メディアや芸術の商業化なんかで19世紀は転換がおきたのだね。
 書物でもって作曲家を知らなければならない、という限界があったので、著者が注目するのは、彼が聾を病んだこと、そしてそのショックを意志で克服して偉大を獲得したというところ。この観点はたぶん大きな影響をもっていて、たぶん五味康祐とか丸山真男なんかにも反映しているのだろう。いまの音楽解説にはほとんど言及されることのない「ハイリゲンシュタットの遺書」が特別に重要な文献になっていたりする。
 これはこれでひとつのベートーヴェン像。でも、たくさんの作品を聞くことのできる現在の環境では、また別のベートーヴェン像もありうる。たとえば、青年時代の快活さや晩年になってもみられるユーモアとか。
 というわけで、ここにかかれていないベートーヴェン像も付け加えながら読むことが必要になっていて、それはこの著作が「古典」になっているということだ。一緒に読んだほうがいいのは、たとえばアドルノベートーヴェン 音楽の哲学」あたりかなあ。(アドルノの名前を出して思い出した。ロマン・ロランという人はアドルノの「音楽社会学序説」で書かれた「エキスパート」という音楽受容者の典型になるのかしら。)あるいは森雅裕「ベートーヴェンな憂鬱症」
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 後半の1927年の講演録になると、ベートーヴェンを主題にして自分の芸術観を語るものになる。この芸術観は理解が難しい。芸術が現実を変える力を持ち、そこに民衆が結集するものであり、芸術にこそ神の啓示が現れるというような主張。この主張への批判は行わない。注目したのは、このとき著者にとっては芸術と宗教は不即不離であって、片方を欠いては片方はなく、凡俗な多くの民衆は芸術を通じて神を理解しようという考え。このような芸術観はその後失われる。というか影響を及ぼさない、説得力に欠けるものになる。契機になるのは二つの大戦。そして芸術の商業化。村上陽一郎は18世紀の啓蒙主義の時代に科学と宗教は分離した、科学の聖俗革命が行われたと主張するのだが、それを借りれば20世紀の前半を通じて芸術と宗教の分離、聖俗革命がおきた、ということ。これは元の意味を逸脱した使い方をすれば、芸術のパラダイムが変わったということになる。だから、克己と努力、世界愛の人、普遍的真理の探究者としてのベートーヴェンという捉え方は新しいパラダイムでは成り立たなくなった。もっと世俗的なベートーヴェン像が求められるのだ。