中野雄という人は「ウィーン・フィル 音と響の秘密」(文春新書)を前に読んでいて、どこかのクラシックレーベルでプロデューサーの仕事をしていることを知っていた。どこかの音楽大学あたりを経由していたのかと思ったが、東大の丸山真男門下というのは知らなかった。優秀な社会学徒が優秀な経営者に転進した例になるのかな。
丸山真男は「日本の思想」(岩波新書)しか読んでいなくて、それもずっと昔のことだったので覚えていない。同時期にいくつか日本思想批判の本を読んでいて、もう少し年少の著者によるもの(久野収/鶴見俊輔/藤田省三「戦後日本の思想」(講談社文庫)や久野収/林達夫「思想のドラマツルギー」(平凡社)など)の方が面白かったという印象がある。以上、脱線。
丸山真男は音楽に関する著書を残していないが、その考えはとても貴重だということで中野雄が記憶と資料を参照しながら、この本を書いた。丸山の言葉のほとんどは、中野の記憶の中にあるものだろうから、多少のバイアスはかかっているだろう。それでも丸山のよって立つところはそれなりに見えてくる。
それは芸術には現実改変の力を持っていて、その演奏に参加することによって人は変革がなされるという考え。そこにおいては市民社会の成立の同時期に音楽の革命を行い、長期的なビジョンを健康的に描いたベートーヴェンが最高の音楽家であり、主題の提示、発展、止揚という展開が明確に組織化されているソナタ形式が最高の音楽であるとされる。このような見方は、今の視点からみると相当に古い考えであり、19世紀後半から20世紀前半あたりに起源をもつロマン主義的なものだ。そのような考えは丸山の独創というわけではない。むしろ、丸山のような戦前の旧制高校から大学を経験しているものには共通している見方になるだろう。ここに書かれた音楽観は五味康祐が「音楽巡礼」「オーディオ遍歴」(新潮文庫)で述べているところとそれほど離れているわけではない。この年齢の人たちは、SPでクラシック音楽を経験した人であり、ロマン=ロランあたりのベートーヴェン伝を読んできた人たちだ。その影響は非常に大きかっただろう。彼らと同世代になる柴田南雄や伊福部昭あたりになると、音楽体験がもう少し広かったので、音楽に対する考えはもっと柔軟であった。丸山は12音音楽以降の「現代音楽」を認めることはなかったくらいの偏狭さを持っていた(ここはカザルスと同じ)。
丸山の音楽観は年少のときの体験を精緻化することでできたのではないかな。その構想を作ろうとするときに、ベートーヴェンとフルトヴェングラーといういわば「神格化」された二人の芸術家のいることが力強さをもたらしたのだろう。この二人がいなかったら、あるいは傾倒することがなかったら、彼はあそこまで音楽を研究することはなかっただろう。
ロマン・ロラン「ベートーヴェンの生涯」(岩波文庫) - odd_hatchの読書ノート
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー「音と言葉」(新潮文庫) - odd_hatchの読書ノート
ホセ・マリア・コレドール「カザルスとの対話」(白水社) - odd_hatchの読書ノート
脇圭平/芦津丈夫「フルトヴェングラー」(岩波新書)