odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

テオドール・アドルノ「アルバン・ベルク」(法政大学出版局) アドルノが師事した作曲家の評伝。記述の向こうにぼんやりと1920-30年代のウィーンとベルリンが見えてくる。

 自分はベルクの良い聞き手ではないし、アドルノのよい読み手でもない。前者は作曲後100年を経ていても難渋なところがあるし、後者のドイツ人が読んでもわかならない文章の日本語訳で彼の考えを理解しているともいえない。そういう言い訳を前に置くことにして、さて読んでみようか。

音調 ・・・ 語りたいことを十分に語りきらないうちに次の語りたいことに移っていくらしく、どうにもとりとめない。この短文からアドルノがベルクの音楽をどう評価するのかを一文にまとめることは自分にはできない。いくつかのキーワードをならべる。「方言」「半音階進行」「意識的な構文法」「移行の技術」「我執とは無縁」「破滅を免れうるという暗黙の希望を抱きつつ、主体を空疎のゆえに放下」「敗者、社会の重圧にひしがれる存在との同一化」「未来への供犠」「刹那のもつ永遠性」。うーん、これらからどのような姿が構想されるのだろう。

回想 ・・・ アドルノは21歳の1924年に18歳年長のベルクに弟子入りした。それからベルクの亡くなった1935年まで交友が続く。その思い出。なにしろアドルノが書くのだから、ベルクよりもアドルノが前面に出るのは仕方がない。それでもいくつかベルクの肖像を見出すとすると、1)きわめて内気、それでいて内輪にはときに傲慢とも思える振る舞い、2)不安神経症の気があり、フロイトと会ったこともあるようだ、3)絵をかくのがうまくて、作曲した楽譜が絵画のように見える→作品を構成的にとらえるのはこの特徴にあるのかも。あたりかな。アドルノはうまいことをいっていて

「彼は、幼児期にとどまることなく、それでいて大人にならぬことに成功したのだった(P78)」

 アダルト・チルドレンのことかな。そのあたりの忖度は置いておくとして、ここではたくさんの名前に注目。指揮者シェルヘン、ホーレンシュタイン、E.クライバー、作曲家シュレーカー、コルンゴルドウェーベルンシェーンベルクバルトーク演奏家コーリッシュ、文人ホフマンスタールカール・クラウスハウプトマンベンヤミン、有名人のアルマ・マーラーなど。あと本では、シェーンベルクバルザック「セラフィタ」に影響されていた(とくに「ヤコブの梯子」)とか、ヴェデキント「地霊・パンドラの箱」の作曲をアドルノが熱心に薦めた、あたりにも注目。
 あとはこの記述の向こうにぼんやりと1920-30年代のウィーンとベルリンが見えてくること。生松敬三「二十世紀思想渉猟」(岩波現代文庫)が関心を持った舞台だし、ポパーハイデガートーマス・マンがいて、フルトヴェングラーワルターとワインガルトナーとクレンペラーのいた場所。

作品 ・・・ この難渋な楽曲分析には歯が立たない。読むのをあきらめました。気になったのは、新ウィーン学派の人たちが「独自の自己批判的緊張に鍛えられて」いるということかな。それぞれ自作や友人の作品、過去の名作の楽曲分析をしていたという。作る自分とそれを客観的に眺める自分とが同居しているわけなのかしら。それが、彼らの驚くべき作品の少なさに関係しているのかも。

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 あとは雑談。自分のよく聞くのは「抒情組曲」。ジュリアードQの古い録音がよい緊張感。あとは「ヴォツェック」を時々。ベーム指揮のとメッツマッハ―指揮のと。ああ、それくらいだ。不勉強ですみません。
 ここにはベルクの不倫の話はでてこない。アドルノが彼に近すぎたことが原因だろう。なので、「抒情組曲」の謎解きは関係者が没した後の1980年代に発表された。