odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

中村光夫「風俗小説論」(新潮文庫) 自然主義リアリズムはなくなったかもしれないが、作家=主人公の「私小説」は生き残っている。

 この著者の「日本の近代小説」「日本の現代小説」(岩波新書)は、高校生の時のブックリストとして重宝した。昭和35年で記述が切れていたのが残念だったが、これらに載っている小説を文庫で追いかけたのだった。ではどうしてこの本を知ったかというと、「現代国語」(当時)の文学史年表に載っていたことと、一冊の値段が安かったからだ(150円だったかな)。この本の初読は高校2年生。全然理解できなかったが、昭和10年代に新感覚派プロレタリア文学も壊滅したという記述だけを記憶した。それ以来、30年を超えての再読。

 この論文は昭和25年に書かれていて、明治38年小栗風葉「青春」発刊から当時までを扱っている。元号表示では何だかわからないな。1950年に書かれ、1905年以降1950年までのこの国の小説を取り上げている。なぜ1905年かというと、20世紀のこの国の文学の主流は「自然主義リアリズム」であって、その功罪を歴史的に詳述しようという意思があるから。これを2011年に当てはめると、1970年代前半に三島・川端が自殺したのち、小説がいかに「セカイ」を主題化していったかというようなものか(問題設定はいいかげん)。あるいは1911年生まれの著者が自分が生まれたころから記述を開始しているので、自分の誕生から現在までの文学史を鳥瞰しようという試みになる。まあ自分であれば、「戦後文学の勃興と没落」にでもなるかな。こんな風に言うのは、この論で1905年を特異点としてみることが恣意的であるからで、それ以前に「小説」がなかったわけでもないし、「自然主義リアリズム」につながる小説はそれ以前にも書かれているから。まあ、上記小栗の「青春」に、島崎「破戒」、田山「蒲団」1907年を加えたこの前後数年が「自然主義リアリズム」にとって重要な年であるということは納得。
(ひじょうにざっくりと「自然主義リアリズム」を説明すると、作者の空想や虚構の世界の物語を書くのではなく、現実の社会問題を摘出しなさい、とくに社会の矛盾と弱者の悲惨さを伝えなさい、文章はレトリックを使わず、実在の人間がしゃべるような雑駁で隠語や方言を駆使した会話を書きなさい、誰にも理解できる単純なストーリーにしなさい、弱者の救済に向かう思想を紹介しなさい、こんな感じの文学運動とその作品。)
 自分は文学の研究の仕方を知らないから、自分の文章で内容をまとめるぞ。
近代リアリズムの発生 ・・・ この国の自然主義文学は1905年「青春」に端を発するがこの作品は深みがなくてダメ(作者が主人公に共感を持っていないからだって)。同じ年の「破戒」はいろいろ失敗もあるけど、主人公を自立した人物にしようという努力は買える。数年後の「蒲団」は主人公=作者本人という設定にして、しかも本人の肉欲をあからさまに書いたのが受けて、模倣者がたくさん出た。でも、それは間違った考え。主人公=作者にすると、小説は作者のモノローグで、作者やその小説感に同化できないものには退屈。人物の見方が一方的になり、平坦になる。人物間の対立とかすれ違いとかが起こらないので物語が平坦(というか筋がない)。主人公=作者だと自己弁護が働いて滑稽感がない。そんなものを読んで楽しいとおもう?

近代リアリズムの展開 ・・・ 島崎「破戒」がドスト氏「罪と罰」を、田山「蒲団」がハウプトマン「Einsame Menschen」を下敷きにして書いた。これは発表当時から指摘済みで、田山は自分でそう書いているのだってさ。柄谷氏の考えをなぞって妄想すれば、戯作や黄表紙本などの文体ではなく翻訳文の文体を使うことで「小説」が書けるようになったというのとあわせて、この国の小説の主題(とくに「自我」)はまず外のものを輸入して模倣することでようやく発見できたということになるのだよ。中村によると、私小説は「偽装されたロマン主義」なんだって。まあ、芸術が世界を救うとか、到来することのないヴィジョンに自分を同化させるとか、そのような運動に参加することで現実に適合できない自分を慰めるとかいうような考えだな。西洋の自然主義文学(ゾラとかフローベールとか)はロマン派文学(これももう読まれなくなったなあ。バイロンとかホフマンとかシェリーとか。ホラー小説で名前が残っているくらいか)の反動として現れたけど、この国のは隠れロマン派だったんだって。にもかかわらず、作者の心境を書くことが本義、それこそ「自然」というように瞞着したわけだ。

近代リアリズムの変質 ・・・ 自然主義の作家は「自然」「観察」「科学」をもって文学の方法としたようだが、それらがドグマでありドクサであるとか、方法を徹底することがよい小説を生むことではないとかに気づいていなかったみたい。西洋の「自然主義」は19世紀後半の文学運動で、それが輸入されたとき(ここで対象にしている明治末期から大正にかけて)には西洋では時代遅れ。そんな具合に、「自然主義」文学というのも西洋の輸入品を日本で加工したものだった(それが「箱庭化」するのは小説に限った話ではないだろうな)。あと、作者=主人公の方法を徹底したら、小説は作者の独我論の世界描写になるよね、それって楽しい?

近代リアリズムの崩壊 ・・・ 昭和の文学は、自然主義の反動として新感覚派プロレタリア文学が生まれたね。でもどちらも「よい小説」を生み出せなかった。どちらも観念的な実験小説だったんだ。悲惨なのはプロレタリア文学で、当局の弾圧で幾多の人が転向小説を書いたけど、どれも「私小説」になってしまった。まあ、どちらの運動も、方法とかイデオロギーとかの表明のために小説を書いたのであって、別に小説で主張しなければならないことを書いたわけではない。彼らの運動は「文学破壊運動」だった(そこまでいうのか!)。これらの運動は「なにもしない」自然主義の派閥に負けてしまったのだ。であとは、新感覚派横光利一・武田燐太郎・丹羽文雄の罵倒。小説の本義を忘れて、小説の通俗化に走るとは何事か、もう一度「自我」の問題を考えろ、「人間」をしっかり見ろ、虚構性を回復しろ、だって。


 なるほど、自然主義文学は日露戦争の時代に始まり、第2次大戦で命脈を絶たれたのであったのか。戦争という外部との過激な交流が文学を含めたこの国の精神というか思想を劇的に変えたのでありました。あるいは文体を変えたのかもしれない。同時代の作品には黒岩涙香「幽霊塔」、押川春浪海底軍艦」、宮武外骨「滑稽新聞」などがある。これらの文体は古めかしく、慣れないと読みづらい。一方、夏目、森、島崎、田山の文体は現代でも読みやすい。この違いかな。夏目や自然主義派たちの新しい文体がこの国の一般の人にも使われるようになるのは戦後まで待たないといけない。ということは「私小説」は新しい文体が普及するツールになったのかしら。内容よりも形式のほうに読者はひかれたとするなら。ちなみに漱石「猫」が1905年、鴎外「ヰタ・セクスアリス」が1909年など自然主義でない文学を年表にプロットすると、この論とは別の文学の系譜も見えてくるよね。そういう意味では、この論は「自然主義文学」という党派の、小さな世界におけるセクト間の論争史とみることもできる。漱石も鴎外も谷崎も芥川もこの論には登場しないんだからさ。それにここには大正時代の反自然主義運動である「白樺派」は触れていない。
 自然主義文学の運動も歴史となり、「自然」「科学」「観察」を文学の方法とする必要はないという時代になったので、この本の主題は無視していいだろう。だって、この本に登場する小栗風葉島崎藤村田山花袋志賀直哉横光利一・武田燐太郎・丹羽文雄を今誰が読むというの? 自然主義に背をそむけ続けた谷崎潤一郎芥川龍之介が品切れになっていないのはどうして。なにより江戸川乱歩横溝正史などの反自然主義の作家の作品はまだ読まれているよ、それはなぜ? 小説は方法や思想ではなく、まず物語であり虚構であることを読者は求めるからではないか。という八つ当たりは大目に見てもらうとして、自分にとっては「自然主義文学」「私小説」という問題はどうでもいい、俺にとってはどうでもいいことの議論だから。作者の私生活に関心を持つ極少数者のインサイダーに、私生活を開示し、そこになんの批判も議論も出てこない小説なんか読まないもん。この論も好事家か研究者のものだな。この論は、生硬な観念を除くと、とくに何か強い考えを主張しているわけではない。内容は空疎で、それを著者のいらだちや批判の辛辣さで糊塗している。段落をすっ飛ばして読んでも構わない種類の本。
 でも付け加えると、「私小説」はなくなったかというとそんなことはない。今はたぶん「エッセー」というジャンルで生き延びているんだ。そこでは作者の日常身辺の報告と心境が語られていて、それに同化できる読者が周りを囲んでいる。作者と読者が共犯関係を作るというのが「私小説」の方法だとおもうけど、それはジャンルを変えることで生き延びているのだろう。かつての「私小説」は貧困・失恋・アル中のような自虐的・自己破壊的な衝動を書いていたのだが、今日の「エッセー」はセレブリティ風な自分を演出している。書き手が読者より一段高いところにいて、読者に憧れをもたせるというのが今の方法なのだろう。「社会」や「歴史」と無関係であるというのは「私小説」と一致していると思う。いずれにしても作者の「インサイダー」にさせて、心地よい空間を作っているのだ。自分はそういう関係に入る気分はないので、無視しているけど、「私小説」の方法は強固な仕組みとして残っていると思う。そこにはロマン派的な心情と自己弁護・自己肯定のねっとりした空間があるに違いない。たぶんこの「エッセー」というジャンルでは「批評」という行為は起きていないのではないか、と妄想する。間違っていてほしいなあと自己弁護の余地を用意しておこう。

  
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