odd_hatchの読書ノート

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中村光夫「風俗小説論」(新潮文庫)-2 日本文学の歴史を作家の内面と技術だけで語るのは知的エリートたちの「小さな場所で大騒ぎ」。

 前回の感想は著者に文句をいっているのか、風俗小説を書いた作家に文句をいっているのかわからないものだった。気になっていたので再読した。

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 失望。今後読む必要なし。
 日本文学の「自然主義リアリズム」の発展を説明する試み。1904年を転換点とするのはいくつかの重要な作が出たから。最初は海外文学の模倣から始まったこの国の文学は、主人公=作家とする倒錯に陥っていき「私小説」になる。昭和になってからの文学運動である新感覚派プロレタリア文学私小説になってしまい、風俗小説になってしまった。戦前の文学運動はこれで壊滅し空白になってしまった。というのは文学は「人間を描く」ものであり、その方法を模索するものだから。日本の作家は想像力がないの致命的な欠陥。
 というのが論旨。前の感想では反自然主義の作家が登場しないことに腹を立ててしまったが、これは俺の勇み足。日本文学全体の見取り図を描くのではなく、著者がみた主流の文学の流れを見るのが目的だから。
 それよりもこの評論がだめなのは、日本の近代化と社会の動きを全く文学にみないところ。文学の歴史が作品と作家の技量で動くとみている。そういう内的運動や精神で文学をみるのは不十分。
 著者は1905年を転換点にしているが、偶然とはいえ正しかった。すなわちこの年は日露戦争があり、その「勝利」によって国家の近代化が完了した年だから。明治の国家目標を達成した(だからその意識をもっていた国民は賠償金なしの講和条約に激怒した)。この国家は近代化と同時に皇国イデオロギー国家神道による宗教政治を行う全体主義国家だった。皇国イデオロギー近代文学の前提になる自由主義と人権思想と相いれない。個人の独立を叫び、虐げられた貧しい人々を国家が支援するのを要求するのは臣民にあるまじき行為で思想なのだ。この近代化と同時に進む臣民化によって、表現の自由は損なわれていく。
 この転換点のあと、海外文学に範をとる文学の国際化は止められる。さまざまな表現規制法による検閲と出版制限がそれ。だから国家に抗する話題や国家政策を批判する話題を書けない。たとえば幸徳秋水ほかが捏造事件で死刑になった大逆事件を書かない。日本が進めた植民地政策で現地で起きた先住民差別を書かない。日本で起きたジェノサイドを書かない。治安維持法他の法律で不当逮捕され拷問されたり虐殺されたりした事件を書かない。知的エリートたちは「私小説」のような委縮した精神を書いている分には国家の制限を受けない。そのうち精神から批判が消え、想像力を失う。国家に抗する運動は作れず、ついには積極的に国家に迎合するようになる。それが大衆小説だし、新感覚派。著者は「昭和10年代の文学は空白」というが、この時代は円本・雑誌が大量に売れ、むしろ小説は盛んに読まれたのだった。それが人生いかに生きるべきかという問いに国家の要求する臣民になれと扇動・説教する大衆小説だった。著者は風俗小説を書く「純文学」作家を批判するが、膨大な大衆小説と風俗小説は無視する。表現規制と検閲の体制があるのに、批判の矛先はコップの中の小さな「敵」に向けられるだけ。小さな嵐を起こしている外では、翼賛と迎合が強くなっているのに。いつまでも考え苦悩していて出口をみせない「純文学」は少数のマニアしか読まない。戦争がはじまると翼賛するもの以外は発表する場所を取り上げられる。
 この評論に登場する日本の作家たちは精神で区別するのではなく、芸術を政治化する全体主義国家の文化政策にどう対応したかで分けるべきなのだ。そうすると、いくつかの類型が見えてくる。すなわち、1.挫折・沈黙(啄木や龍之介)、2.逃亡(永井荷風石川淳)、3.迎合・翼賛(風俗小説家、大衆小説家などほとんどすべての小説家)、4.抵抗(プロレタリア文学金子光晴)、5.韜晦(谷崎潤一郎江戸川乱歩)。
 こういう類型にわけると戦前日本の文学と文学者の動向は世界史的になってくる。同時代のナチスソ連全体主義体制における芸術家との比較ができるし、フランスや東欧のレジスタンス文学が日本にできなかった理由を解明する必要もでてくる。日本的だと思うのは、ナチスソ連全体主義から亡命した作家・芸術家はたくさんいたのに、日本にはいないところ。亡命者を受け入れてくれるリベラルな国家が周辺にないのが理由の一つと思うが、それでも不思議。そして、1930年代に日本文学はあまり読まず上にあげた戦前作家に批判的で海外文学を原書で読んでいた学生らが敗戦後に新しい文学を作ったこともこの図式にいれるべき。
 ま、1950年の評論だから読む人はいないだろうけど。というか自然主義リアリズムの文学は知的エリートが知的エリート向けに書いたものだから、読者は少ない。もともと小説そのものがつまらないし、我慢して読むものだった。知的エリートが集まった狭いグループの運動だった。それを日本全体の運動のようにみるのは、知的エリートである著者の倒錯ではないか。「小さな場所で大騒ぎ」している感。
 日本の自然主義リアリズムの文学がなくなり、この評論が書かれてから半世紀以上たった。そのような場所からみると、1890~1945年までの日本文学で21世紀でも大衆人気をもっているのは夏目漱石宮沢賢治江戸川乱歩くらい。著者の見取りとは違った風景に変わってしまった。

 

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メモ
 20世紀のゼロ年代に日本ではやっていたのは、ニーチェイプセントルストイ、ゾラ、ダーウィン、ヘッケルとのこと(ドストエフスキーが漏れているがこの人たち同様に大流行)。このころの青年は原著か英訳でこれらを読んでいたのだね。このリストに上がる人たちから見えるのは、反権威と反キリスト教の文脈で読まれたこと。日本の教養主義は最初から政府批判で社会変革欲求をもっていたのだね。それはフランスやドイツの教養主義や青年運動とは異なっていた。
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