odd_hatchの読書ノート

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リヒャルト・ワーグナー「さすらいのオランダ人・タンホイザー」(岩波文庫)

 今度は初期の歌劇のスクリプト

さすらいのオランダ人 ・・・ その昔(いったいいつのことか、帆船航海で喜望峰を目指していたとされるから1400年以降か)、オランダ人の船長が嵐にあい呪いの言葉を口にしたら天罰覿面、7年に一度しか陸地に上陸できず(その間は嵐の中を漂流)、無償で船長に愛を捧げる娘と結婚しなければ成仏(というのはおかしいな、昇天、というのもおかしい)できなくなってしまう。爾来数百年、すっかり希望をなくしてしまった船長がひさしぶりの陸地上陸を果たす。呪いは船にもかかっているのか、嵐のさなか。幸いなことに隣船の船長は気のいい奴で、宝を積み上げたら娘を嫁にやるといいだした。さて、この娘はなぜか「さすらいのオランダ人」の伝説にひどく取り付かれていて(笑)、船長の肖像画にいつも見入っている、そして自身を捧げる覚悟をしているのであった。第2幕の邂逅は二人には劇的であるが、物語は淡々と進み、第3幕で婚約者と別れ話をしているのをオランダ人はみて短慮にも絶望してしまう。しかし、船出の後を追って娘が入水し、晴れて二人は昇天しました、とさ。
 ノルウェーの海岸を舞台にしていて、バルザック「セラフィタ」を思い出したいところだが、そうではなくて当時の都市伝説の類の物語化なのだろう。こんなに投げやりな感想になるのは、娘の自己奉仕を期待するオランダ人が手前勝手にみえるからであって、最近のオペラ演出のようにすべては娘ゼンダの妄想。オランダ人は救われない、そもそも実在しないのだから、あたりのほうがまだましと思える。ゼンダの父ダアラントや婚約者エエリツク(ママ)がゼンダの妄想を説得しようとして失敗するのは、カルト宗教に入れ込んだ息子や娘の説得に失敗するのと同じかな。
 あと、オランダ人をユダヤ人に変えた伝説のバージョンもあったと思う。印象的なのは1970年代初頭のNHK少年ドラマ「続・タイムトラベラー」。

タンホイザー ・・・ 中世13世紀のお話。当時の騎士は貴婦人に一方的な憧れ=愛を抱き、なんの報奨もない報われない愛に殉じることを名誉にしていた。そこでは禁欲も重要なのである。しかるに異端の騎士タンホイザーはそのような愛に懐疑し、城を離れ、魔界の山でヴェーヌスが支配する性欲の愛を知った。いったい何年をそこで過ごしたのか、タンホイザーは性欲にも飽きて、もとの城に戻りたいと欲する(第1幕)。城に帰ったものの以前とおなじ抽象的な愛を歌うしかない忠誠な騎士たちを蔑んで、タンホイザーは性欲の崇高さを歌い、再び放逐される(第2幕)。で、禁欲と性欲の両方の世界から飛び出してしまったタンホイザーにはローマ(教会)に巡礼に出かけても、救済は訪れない。世界から見捨てられたタンホイザーが絶望したときに、彼に純愛を捧げたエリイザベェトが死亡することによって、昇天するのだった(第3幕)。
 なんですか、これは?と21世紀のわれわれは考えることになるだろう。ヴェーヌスの愛もエリイザベェトの愛もどちらも両立しうるというのが、ここ100年の間にコモンセンスになったことだし。なので、むしろ視線はヴァルトブルグの城に向けられるべきだな。ここの城主へルマン以下、騎士にしてマイスタージンガーの高貴な人びとがいかに観念にまとわり憑かれているか、意見を同じにしないものにいかに居丈高で排他的になるか、ヴェーヌスの世界に住む人に差別的であるか、それらの事柄にいかに無自覚であるか、あたり。これをこの国の<システム>(byカレル・ヴォルフレン)に重ねて見ることも可能ではないか、とかね。

 これらを書いたとき、ワアグナア(この本の表記)は20代だったからなあ。人物造形も不十分だし(エルザとタンホイザアの主人公にしかフォーカスしていないので、周辺人物が人形みたい)、劇のもちあがりもないし(だから音楽が派手に鳴る)、主題もおとぎ話めいて現実感がないし(その分、作者の深層意識とか偏見はうきあがってくるかも)。かつてのワグネリアンは劇作家ワーグナーを称賛したのだが、どこに新しさを見出したのかしら。ワーグナーの造形化した英雄たちが、当時の国家で成功した人たちを意識を正当化し、歴史(というか神話)と結びつけたことなのでしょう。ワーグナー・ファンはそこに自分を投影し、正当化したのだろうな。ナチス時代のバイロイトでは舞台に鍵十字の旗が翻ったが、そのような意識の典型なのだろう。

 あいにくこの2つの歌劇は推薦できる録音を知らない。一般には「オランダ人」はクレンペラーベームで、「タンホイザー」はサヴァリッシュショルティというところかな。古いけど。映像だと「タンホイザー」第1幕のバッカローレの乱痴気騒ぎが楽しみになるはず。