odd_hatchの読書ノート

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トーマス・マン「ファウスト博士 上」(岩波文庫)-1 全体主義ドイツの告発とドイツ精神の擁護

 トーマス・マンアメリカ亡命中の1943-45年にかけて書き、1947年に出版された。執筆中はWW2が進行していて、予断は許さないもののドイツは次第に劣勢になっている。ナチスドイツの全体主義国家の横暴が止まるのは喜ばしいことではあるが、故郷で祖国のドイツが破壊され懐かしい人々が死んでいくのは耐え難い。そのようなアンビヴァレンツな感情が本書に色濃く反映している。全体主義ドイツの告発とドイツ精神の擁護が一冊のなかに現れている。
 小説は作家の得意な年代記アドリアン・レーヴェルキューン1885-1940)という優れた、しかし「天才」ではなかった作曲家の生涯を、幼少期から知りあいでありいっしょに創作作業を行った古代人文学教授が記録する。

訳者による梗概

ゲーテファウストは、学問によっては達し得られない宇宙の秘密を探ろうとして、悪魔と契約を結んだ。そしてこの《ファウスト博士》は、すべての音楽の技術を易々と習得しか壮大な音楽を数学的に構成しはするが、それに真の生命を与えるだけの力が欠けていた。そのために彼は悪魔と結ぶのである。こうして彼は「ファウスト博士の嘆き」を完成するが、その代り彼は悪魔との契約条件によって、愛することを禁じられ、絶えず創造の高みから荒涼たる不生産状態への地獄堕ちを繰返さなければならない。これはすべて梅毒のために起るのである。二十四年の契約期限が切れて、レーヴェルキューンの魂は地獄へ堕ち(すなわち発狂し)、さらに十年ほど生ける屍として生きたのち、一九四○年八月、ついにその生涯の幕を閉じたのであった。

 ここに加えることはほとんどないが、いくつかの指摘を加えると、アドリアンユダヤ人。本文中でそのように名指しされることはないが、名前がそうであるし、ヘブライ語を学び神学に進むという経歴から明らか。執筆時、ドイツはユダヤ人は価値がないものとみなし、民族浄化を行っていた。そこにおいて、ユダヤ人の「天才」を表現することがそのままナチス批判になるのであった。
 アドリアンは幼少期から音楽の才能を発揮する。彼が興味を持ったのは和声の響きの混ぜ合わせ。和声に音を加えたり、転調したりすることで世界が変わることに興味を持っていたのだった。音楽を形式としてとらえることが大事(そこにユダヤ教の反映をみることができるかも)。その点はおのずとメロディが生まれてしまうモーツァルトシューベルトらとは異なるところ。形式を重視し規則を拡大・複雑化することに興味を持っているので、音楽に自生して発展していく「真の生命を与えるだけの力」を与えることができない。そこが彼の弱みであるが、同時にドイツの後期ロマン派の限界が露呈していた、とみなせるだろう。すなわちアドリアンの悲劇は彼個人だけに起きたのではなく、ドイツ精神そのものの行程であったのだ。
<参考エントリー> 樋口裕一「音楽で人は輝く」(集英社新書

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(この小説には、エルネスト・アンセルメ、ピエール・モントゥーらに交じってフォルクマール・アンドレーエという実在の指揮者が登場する。アンドレーエは1953年にウィーン交響楽団と世界初のブルックナー交響曲全集を録音した。この録音は興味深いがおいておくとして、彼は若い1910-30年にかけて作曲している。そのピアノトリオやオーボエ協奏曲、弦楽四重奏曲を聞くと、ブラームス没後30年を経てなお亜流の音楽を作っていた。すでにマーラーリヒャルト・シュトラウスが登場しているのにこの保守性! 後期ロマン派が関心を失うのも当然な作品だった。)

 岩波文庫上巻は、アドリアンの青春期。注目するのは、ドイツの教育システムと学生組合。ティーンエイジになるころから両親と離れて生活し、同年齢の若者たちとの共同生活を送る。そこにある教養主義ナショナリズムがドイツの若者の人格を形成するのがよくわかる。本書では「遠足」と訳されたワンダーフォーゲルの様子が面白い。単なるハイキングや軽登山なのではなく、共同生活と互いの切磋琢磨がこの運動の核心であるのがよくわかる。
上山安敏「世紀末ドイツの若者」(講談社学術文庫)

 さらにこの時代の道徳では、禁欲が重大なテーマ。女性との恋愛(どころかふれあい)が禁止されているが、一方で性欲は抑えがたい。語り手は下宿中に女中とよろしくやり童貞を捨てたのであるが、アドリアンの気真面目さと緊張はそれを許さない(たぶん宗教的な要請もある。語り手は性欲に寛容なカソリック)。なので、娼館に出向く。「怖れを知らない清浄な騎士」であるパルジファルは花の乙女の園で性愛の誘惑を退けられたが、俗物であるアドリアンは誘惑に屈し、かつ魅了され、タンホイザーのように性の園の誘惑から離れられなくなったのだ。


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2023/04/17 トーマス・マン「ファウスト博士 上」(岩波文庫)-2サマリー 1947年に続く