odd_hatchの読書ノート

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2012バイロイト音楽祭の「パルジファル」について

 2012年のバイロイト音楽祭の上演作品のうち、「パルジファル」が放送された。演出が面白かったので、メモを残しておく*1
 ワーグナーの台本に、以下の本を重ね合わせると、演出意図が見えてくると思うので。
トーマス・マン「リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大」(岩波文庫)
清水多吉「ヴァーグナー家の人々」(中公新書)
 単純化すると、主題は「ドイツ精神」と近代ドイツ史とワーグナー家について。これをパルジファルの物語に当てはめたところが慧眼。
 舞台は、ドイツのブルジョア家の邸宅。そのなかのサロンと思しき一室。第3幕第2場以外はずっとここで物語が進む。このサロンは、写真などでみることのできるヴァーンフリート館とみてよい。すなわち、ワーグナー家の演出家が自身の家の歴史を語る。これも面白い見方であって、自分のみたこの演出の主題からすると、「ドイツ精神」を提唱し、翻弄され、戦後ドイツのあり方を象徴するのがワーグナー家であったとみなせる。なので、清水多吉「ヴァーグナー家の人々」でワーグナー家の歴史を知っておくとよい。
 そうみると、第1幕の冒頭で、後継者を指定したけど就任を拒否されて、生きながら墳墓に入っているティトゥレルはリヒャルトそのひとと読んでしまう。彼は聖杯城をつくり、教義を定め、騎士を集めて君臨した。そこに象徴されているものを「ドイツ精神」と呼んでよいとおもう。リヒャルト本人の理念、楽劇概念、題材が祖国と民族の統一を目指していたのであるので。この「ドイツ精神」は、200年後のわれわれが客席から見るときに、恣意的であるとか、普遍性がないとか、いろいろ批判はできるのであるけど、ともあれその時代のドイツの人々、とりわけヴァーンフリート館に集う人にとっては、強烈な強い理念であった。影響力から逃れたのはニーチェくらいかな? それは置いておくとして、その素晴らしさ、自画自賛は舞台に登場する人々の翼となって現れる。注意してほしいのは、翼を背負っている人は宮廷に出入りする貴族、官僚、医者や弁護士などのインテリエリート。すなわちこのような人によって実現されるもの。メイドや執事などには翼がないことに注意。「ドイツ精神」を担う人は国民全員ではなく、特定の階層・職業の人に限られる(聖杯城の騎士になるのに、特別な条件が必要であったことを思い出そう)。
 第2場で騎士たちの儀式が始まると、様子が変わって、ブルジョアの背広が登場。これはバイロイト音楽祭初期の様子で、パトロンや観客が宮廷の関係者やインテリだけではもたなくなり、ブルジョアに門戸を開いたことによる。当時、ドイツの経済成長はあって(ハウプトマンの初期戯曲ウィトゲンシュタインの祖父や父)、金を持ち優雅な生活を始めた者たちがいたわけだ。彼らはこの種の文化に投資し、自分の教養のなさを隠すことになる。ドイツ精神という理念も国際資本主義のグローバル化には都合の良い後ろ盾になるわけだ。政府の保護政策と植民地拡張に期待するのでね(レーニン「帝国主義」)。さらに時間が経つと、一般大衆が参加してくる。この人たちは、ブルジョア経済人のような教養への憧れとか社会のステータスには無関心で、ネーションアイデンティティへの共感がさきにある。なので、国家の危機に対しては敏感に反応して、2場の終わりになると、軍装を身に付け、第1次世界大戦に参加する。ここにおいて、宮廷人やインテリエリートが旗を掲げた「ドイツ精神」は変容している。なので、グルネマンツ以下、当初のヴァーンフリート館=ドイツ精神の保護者の背からは翼は失われ、戦争のあいだ、眠ることになる。起きるのはドイツが荒廃してから。
 第2幕は、同じくヴァーンフリート館。ここの見立てが面白い。すなわちクリングゾルの魔法の城はたいてい聖杯城から離れたどこか遠くで、聖杯城の騎士を魔法でたぶらかすというのがト書きの指定。でもここでは、クリングゾルは聖杯城を乗っ取ったことになっている。時期は第1次世界大戦のあと。背嚢を背負って戦場にいった聖杯城の騎士たちは戦場で傷つき、後方の病院である聖杯城に寝泊り。メイドは看護婦に姿を変えていて、自分の欲望に忠実な娼婦でもあろうとする。それに呼応してか、クリングゾルは女装している。この姿はヴィスコンティの「地獄に落ちた勇者ども」の冒頭で、ヘルムート・バーガーが演じた姿。でもって、それはマレーネ・ディートリッヒが「嘆きの天使」で演じた男装の様子。男装した女優を真似している男優をさらに模倣しているという倒錯した関係。そこからワイマール時代のキャバレー文化とか文化人とナチスによる「退廃」批判などをみてもよい。そんな具合に1920−30年代のドイツを象徴しているわけだ。おもしろいのはクリングゾルも翼をもっていることで、ここで「ドイツ精神」を継承したと自ら宣言していることになる。でも、その翼はのちにナチスのワシの紋章に変わる。ここにおいて、ドイツ精神はナチスに簒奪されたのだという解釈になったわけだ。実際、ナチスは政権を取る前からバイロイト音楽祭に肩入れして、「夏の臨時首都」として使っていた。そのクリングゾルに寄り添い、命じるままに働き、花の乙女=看護婦/娼婦の親玉を務めるクンドリーは当時のバイロイトの女帝ヴィニフレッドだな。彼女はナチスの最後までずっと支援・関与していたからね。第2幕の最後は、ベルリン陥落。ヴァーンフリート館は破壊され、ソ連の映像でよく知られているように国会議事堂の上にあったワシの紋章が爆破される。
 第3幕は荒廃したヴァーンフリート館。かつての住居者はいなくなり、無人。残っているのはグルネマンツのみ。クンドリーはパルジファルの洗礼に参加するが、ヴィニフレッドはナチスとの関係を否定しなかったので、それと結びつけるわけにはいかない。いったい誰を模しているのかなあ。面白いのは、聖杯城に集まるのが貧乏人、というか住処と仕事を失った浮浪者たち。もとはブルジョアかもしれないし、プロレタリアかもしれないし、戦争はそれらの階層を貧困において平準化したというわけだ。当然、宮廷人はいないし、インテリエリートも同様に貧者になっている。そこにおいて、未来が開けるという考えは、この国でも共通するかもしれない。
 で第2場は、国際軍事法廷。傷ついたアンフォルタスが各国の検事に非難され、紙つぶてを投げつけられる。まあ、ドイツ精神を体現し継承してきた人を裁判にかけ、戦争責任を追求しているというわけだ。なので、ここのアンフォルタスでフルトヴェングラーを思い出したなあ。古いドイツ精神の体現者として高名な知識人をスケープゴートにするというのが。ナチスのワシになったドイツ精神は水没する。それまでの「ドイツ精神」というのはもはやありませんよ、こうして葬りましたよ、といっているみたい。そのうえで、舞台上方に巨大な鏡が掲げられ、観客の姿が映し出される。演劇、オペラを見て陶酔している観客を鏡に移して、あんたはこんなふうな人間ですよ、とみせる。いっきに白けてしまうわけ(快楽、官能に陶酔している自分を外から見せて、ほら、こんなに醜悪なんですよと見せつけるわけだから)。まあ、昔ながらのワグネリアンを批判しているのかも。もうひとつの効果は、観客を舞台に載せることによって、ワーグナーのドイツ精神を継承するのは観客であるみなさんなのですよ、というワーグナー一家の宣言でもある。もう自分をドイツ精神に模すことはないし(19世紀の独占上演権は放棄したし)、ナチスのような政治団体とは縁を切ったし、健全ですよ。というわけだ。それを象徴するのがラストの子供だな。昔のドイツ精神を体現するジークフリートはいませんし、ヴィニフレッドも追放しました。戦後バイロイトは無垢な孫であるヴィーラント(ヴォルフガングかな?)が継ぎましたというわけだ。
 これを自己批判と見るのか、自己弁護と見るのかは置くことにする。まあこのメモではいろいろな演出を無視しているので(とくに第1幕の出産とか、舞台前方で演じられる子供の黙劇とか)、わからないところとか、ここに書いたことと矛盾するようなところとか、ここに書いたことでは解釈できないこととかいろいろある。それはこの解釈のダメなところ。とはいえ、パルジファルという宗教譚みたいな話に、近代ドイツ史とワーグナー家を重ねわせるというアイデアはとても刺激的だった。
 あとは音楽についてだけど、こちらはあまり書くことがない。人が言うほど感心しなかった。指揮者フィリップ・ジョルダンはアルミン・ジョルダンの息子で親子2代が「パルジファル」の映像を残したという奇縁に驚いた。

*1:ネットには全曲動画があるけど、リンクは貼りません。