時代はわからないがたぶん1973年ごろ(小説の初出時の年)。100年ほど前から遺伝子の突然変化が形質化したのか、肌の色が緑色の子供が生まれるようになった(肌の色が白・黒・赤・黄のいずれでもないことに注意)。アングロサクソン系の人たち(もちろんイングランド人を示唆する)にはあまり出現せず、ケルト系(もちろんアイルランド人を示唆する)には多い。あいにくのことながら緑色の肌をもつ人々は差別的な扱いを受けている。すなわち町には「ゾーン」が設けられ、緑色人は特定の「ゾーン」に入ることができないようになっている。多くの緑色人はいくつかの職業にはつけないようになっていて、たいていは低賃金で汚れ仕事をすることになっている。この種の差別的な扱いは国会で容認されていて、しかもエリート層にあるアングロサクソン人は自分らがいずれ少数派になることを恐れている(出生率に差があるのだ)。背景はこのようなSF的なものだけれど、実のところはイギリスの現状を拡大・誇張したもの。アングロサクソンとケルトの差異というだけで明らかであるし、大英帝国の植民地主義はたくさんのインド人移民となって現れている。そのような人種がサラダ状に分布しているのを書いている。そこにおいて、豊かな人々は現状を維持するために、抑圧に手を貸しているのを当然としている。
ネリン・ガン/グリフィン他「ダラスの赤いバラ・わたしのように黒く」(筑摩書房)
さてこのような大きな状況を背景にして、主人公ヒューヤマンはインド生まれの天才的数学者。ごくあたりまえに5桁の数字の三乗を数秒で計算し、何ケタもの数字を一瞬で記憶してしまう。このような能力を持っていることに着目したイギリス政府は「人種関係局」所轄の研究所に招く。彼に緑色人の人口推移をシミュレートさせるためだ。この職はインドに送られた雑誌の応募記事にあったものであり、ヒューヤマンは雑誌の編集長の自宅の一室を借りることにする。イギリス人家族(編集長と妻、二人の娘、そして緑色人のメイド)とインド人であるヒューヤマンは意思の疎通がうまくいかない。メイドは彼にいたずらをし(一度は毒を入れたケーキで毒殺されかけた)、娘の姉は男を連れ込んではベッドインし、妹は魔女のようにヒューヤマンに呪いをかける(数学者ではあっても呪術に恐怖を感じている)。次第に研究所で業績を上げると、編集長は別のマスコミに紹介し、彼の記事が雑誌にのるようになる。このような日常が比較的たんたんと語られる。
ポイントは上記の大状況を観察する主人公がインド人であることかな。彼は白色人と緑色人のいずれでもないので、とりあえず中立の立場で客観的であるようにふるまう。一方、植民地時代からの歴史は、白色人からも緑色人からも差別されることになる。こういう三者の差別構造があることに注意。この国の人々にとっては、黄色の肌がこの種の三重の差別構造を見出しやすいのだが、イギリス人作家からこの視線が生まれるというのは重要なことではないかしら。
物語が一気に変わるのは、メイドとの確執が決定的になった直後、編集長の家は爆破され、一家全員が死亡。ヒューヤマンは難をのがれたもののケルト人および緑色人解放を目指す革命組織によって拉致誘拐される(いちおう言っておくと1970年代はIRAのテロが激しかった時代)。そこでの数か月の監禁生活と緑色人の悲惨な生活の見聞。内省の時間を得たヒューヤマンは、これらの事件の背後に暗躍する陰謀を見出すことになる。なぜ編集長の家は爆破されたのか? 誰がそれを実行したのか? なぜヒューヤマンの部屋は娘を監視できるようになっていたのか? 「人種関係局」の目的は? そもそもなぜヒューヤマンはイギリスに招かれたのか? なぜ誘拐されたヒューヤマンには助けが来ないのか? そして、天才数学者は解放されたのちに、一連の陰謀団の首魁に対しある取引を提案するのであった。
最初はSFのつもりで読んでいるうちと、スパイサスペンスに変容していき、ヒューヤマンの推理は前半にかかれたさりげないことどもにぴたりとあてはまり、その緻密な計画(とその記述)に驚くことになる。同様に監禁状態の息苦しさ、恐怖、犯人への同化などその心理描写も目が詰まっている。なるほど作者の小説構成力と細部の描写には舌を巻くしかない。ここでも、大状況としての差別問題と、小状況であるヒューヤマンの自己変革ないし世界認識の変化の二つのストーリーもあるのであって、どこにフォーカスしても語りたい何事かを発見することができるだろう。