odd_hatchの読書ノート

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ネリン・ガン/グリフィン他「ダラスの赤いバラ・わたしのように黒く」(筑摩書房)

この国には8月15日や2月26日のように、その日付がある出来事というか感情というか国家と個人の両方の入り混じった記憶や感傷を喚起させる日付がある。アメリカにとっては7月4日と11月22日(あと9月11日)がそれになるだろう。前者は独立記念日、後者はケネディがダラスで暗殺された日。たんに歴代大統領の3人目の在任中暗殺禍を受けたことによるのではなく、最も若い大統領の死を悼むというのでもなく、この人の具現していた「自由」「正義」「健康」というアメリカ1950年代のセルフイメージが壊れた日であるということで記憶に残ることになるのだろう。たしかに1950年代からアメリカの内部はおかしくなっていた。それは糊塗されていたはずなのだ。でも、フレシチョフの訪米、キューバ危機、ベトナム戦争という一連の出来事がアメリカを蝕んでいくことになり、その内部で起きている沸騰が11月22日に蓋を開けてしまったのだ。
 ケネディの死については謎が多い。最大の謎は本当にオズワルドなる人物の手によるものなのかどうかであるが、事件発生の5時間後に、別の容疑で逮捕されたオズワルドが暗殺犯として報道され、そこから捜査が止まり、逮捕48時間後には別の手によって殺され、その犯人も獄中で縊死する。事件を調べると、警察や政府の対応のおかしさ、周辺諸国の奇妙な対応、オズワルド本人の謎など、いくつものおかしな点が浮かんでくる、のだって。キューバ危機から1年後。大統領を狙うとしたら、ソ連工作員? キューバ工作員? 国内の共産党員? KKKのような南部の人種差別主義者? 北部のエリートに敵対する南部の油田成金? 誇大妄想狂? 容疑者だらけでいながら、誰も特定できないという状況。警察は、FBIは、シークレットサービスはいったい何をしていた。まったく謎だらけだよ、金田一くん。
 この事件に関するドキュメンタリーは何冊もあり、いくつもの映像化がある。「ダラスの赤いバラ」はもっとも早いもののうちのひとつ。おそらく事件の半年後には出版されたものだろう(奥付を見ると、日本版の初版は67年、再販78年、それを90年ころ購入して今まで寝かしていた)。事件当事者周辺の人のインタビューがあって、いまでは「歴史的」なものになっている。とはいえ、ある種の思い込み(オズワルドをキューバ共産党のシンパにしたがるなど)があり、事件の調査報告も出ていないとあって、十分なものではない。どうにもイエローペーパーにでてくる類のできだな。

 「わたしのように黒く」は、白人ジャーナリストが黒人に変装してもっとも人種差別の激しいディープ・サウスと呼ばれる地域をヒッチハイクした記録。時代は1958年ころ。大リーグにはすでに黒人選手が登録されているなど、少しずつ変化の兆しはある。すでにアラバマ州セルマではキング牧師の指導する非暴力活動が始まっていた。しかし、まだアメリカ社会を圧倒する力にはなっていない(爆発するのは1964年のセルマの大行進から)。
 そういう人種差別のもっとも激しい地域で「黒人」として生活することがいかにつらく、孤独なものであり、希望を持てないものであるかを示したルポ。生命を賭すことになるプロジェクトを敢行する(そこには逡巡ののちの悲壮な決意もある)ことを冒険というのならば、これはたしかに「冒険」と呼べるだろう。このルポは、アメリカを変える力の一部分になったことを願いたい。著者は白人であるから、肌を焼くことをやめ、顔料を塗ることをやめれば、差別の現場から抜けることができる。しかし、多くの黒人は差別の現場から逃げることもならず、絶望と悲嘆のうちに暮らすというのは、なんとも・・・にもかかわらず、ゴスペルのなんと明るく希望にみちていることか(戦前の録音を復刻したCDを持っているので)。
 本多勝一は「殺す側の論理」でアメリカの白人宣教師と論争を行い、どのようにすれば黒人の側で差別を経験することができるかと宣教師に問うた。その答えはこのルポにある。すなわち自ら「黒人」となってその場所に行くこと。あるいは本多が「アメリカ合州国(誤変換にあらず)」に記録したように、「黒人」(差別される側)と行動を共にすること。実はこれはイエス自身が実践したことなのだが。ともあれ、この本を入手してからかれこれ15年。ようやく書くことができた。2006/05/11


追記 2014/4/29
 グリフィン「わたしのように黒く」は、「私のように黒い夜」とタイトルを変え、ほかの資料を追加して出版されている。