1933年に発表され、同年にスターリン賞を受賞した小説。この国には1930年代に翻訳され、現在でも原題「ツシマ」のタイトルで上下2巻で販売されているらしい。自分が読んだのは、「バルチック艦隊の潰滅」というタイトルの一冊本。なにしろ9ポか10ポの細かい活字の上下2段組で550ページ。「罪と罰」か「赤と黒」なみの長さを誇る(そんなものをよくもまあ、大学受験直前の2月に読んでいたものだ。同じ時期に司馬遼太郎「坂の上の雲」を読んでいたとしても)。
1904年の日露戦争で、ロジェストヴェンスキー提督に率いられたバルチック艦隊が大西洋、インド洋を航行し、日本海海戦で壊滅するまでを描く。
ここにはふたつのストーリーがある。ひとつは、艦隊の航海と海戦の敗北、その後まで。ドキュメンタリータッチで描かれる艦隊の様子はひどいものだ。通常、日本海海戦は帝国海軍が「勝った」ことになっているが、ロシア側の資料からみるとロシアが「負けた」とみたほうがよい。航海の達成目標の不明確、マネージャーの意思統一の欠如、不足するリソース、メンバーの教育・訓練体制の欠如、リスク管理の欠如、マイルストーンの未設定、などなどほとんどすべてのプロジェクト管理がなされていない。そのような体たらくでも、日本海海戦の直前に彼らはいくつかの戦術オプションを選択することができ、壊滅しないですむことができたはず。にもかかわらず、壊滅するという事態に至ったのは、帝国海軍の優秀さではなくて、ロシア海軍のていたらくに原因がある。
その後を考えるとき、たぶん、帝国海軍は「なぜ勝ったか」の分析を冷静に行わなかった。「坂の上の雲」のどこかで誰か参謀が「7割の運(天佑)と3割の運(自分で切り開いた)」のが勝因といっていた。こんな評価を下すあたりから、帝国海軍の腐敗が始まっている。この国は1868年の開国のとき、海軍らしいものをもっていなかった。それから35年たらずで戦艦6隻、巡洋艦6隻以上の艦隊と30万人くらいの軍人を抱えるまでにいたる。このスピードと関係者の使命感というのは、たとえばベンチャー企業の急成長期。それが、没落寸前の旧企業(技術革新なし、堅固な官僚制、能率の悪い組織など)を追い詰め追い越したようなものだ。ベンチャーは成功し、拡大するが、最初の成功体験にこだわっている。そして、日本海海戦から40年後、若々しいベンチャーは経営者が数世代交代して大企業に変貌し(しかも変貌していることに内部の人間は気づいていない)、次のベンチャーであるアメリカ海軍の新しい戦略と兵器によって、潰滅したのだった。そんな風に考えると、これはロシア海軍の潰滅であると同時に、帝国海軍の栄光の完成と没落の始まりを告げた本でもある。
(少し厳しかったかもしれない。日本海海戦の成功は、丁字戦法の採用とか上村艦隊の臨機応変な艦隊運用とか対馬海峡に対する信念などではなく、海戦前の射撃訓練、1年間の実戦を通じた艦隊運用訓練、戦略・戦術の共有とそれに沿った自発的な運用ができたところにある。凡事を徹底するという単純でしかし実行が困難なことをしたことが成功を導いた。)
もうひとつのストーリーは、田舎の野心に燃える青年が都会にいき、軍隊に入り、社会正義に目覚め、改革運動に参加していくまで。主人公を支援するのは中年の機関中尉ワシーリエフ。かれは当時40代半ばで、若いころに「人民の意志」党(ナロードニキ)に参加していた経験をもつ。ツァーリによる弾圧で党は潰滅したが、残党はこんな海軍の中にもぐりこんでいた(同時に本国から切り離すために、政府や軍首脳は彼らを艦隊勤務に変えた)。主人公は貧乏だったので教育をあまり受けていない。そこで、この機関士が彼の教育係りとなり、様々な本を貸し、自分の居室で社会や軍隊の情勢を彼に教える。主人公は周辺の兵士に語ることによって、同士を増やしていく。まあ、こんな感じの教育物語が進む。彼の目でみると、艦長以下の幹部は無能で傲慢で卑屈な貴族、士官は事なかれ主義の無能な連中、乗艦している僧侶は酒飲みで祈祷の文句も知らない阿呆、兵員は無教養であるが軍隊の不正や腐敗で貶められ苦労している。一部の先進的な持ち主は善良で自己犠牲も厭わない連中。バルチック艦隊には12000人が乗船していたというが、彼らはそのままロシアの社会の縮図となる。
スターリン賞受賞が1933年であることに注目。この年、粛清が最も盛んに行われ、社会主義リアリズムなる理論でもって学芸・芸術などの政治化、上からの組織化が行われた。ショスタコーヴィチへの最初の批判もこのころ。となると、この小説が「スターリン賞」を受賞したことの政治性も明らかになる。(以上の記述は1978年印刷本の訳者解説に従っている。wikiによるとスターリン賞受賞は1941年とのこと。)
「坂の上の雲」にこの本が登場していたのが、この本を買った理由だが、「坂の上の雲」のいくつかのエピソードはこれを出典にしている。たとえば、海戦の最中に砲塔の責任者が解散を命じ自殺したとか、主人公の乗艦するアリョーラの艦長はそれを拘束した戦艦朝日の野元艦長の旧知であるとか、旗艦スワロフが沈没直前に最後の艦砲射撃をクルエリという士官が放ったとか(この士官の風貌は司馬とプリボイではずいぶん違っている)。
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