odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

生松敬三/木田元「現代哲学の岐路」(講談社学術文庫)

 1976年に中公新書ででたものを1996年に文庫化したもの。1930年前後に生まれた二人の対談で、19世紀から現在までの思想を概括したもの。哲学書を読み始めたものにとっては、それまでの読書の結果を位置づけていくいい指導書になるのではないかしら。デカルトあたりから始まり、ライプニッツ、カントとヘーゲルまでを鳥瞰し、彼らの批判として展開された19世紀哲学を概観することになる。ひとつの流れはショーペンハウエルニーチェの近代批判の流れ。科学の側からの合理主義批判の流れとしてフロイトあたりに触れられる。そしてこの対談者の主要関心であるフッサールからハイデガー、そしてフランスの実存主義あたりまで。自分の現在の年齢になると、個々の哲学者が何を考えていたのか、どんな主張をしていたのかなどには関心をもてなくなる(まあ、いろいろ哲学書を読んだが、きちんと身についていないということだ)。いくつかの関心事項を記載しておくことにする。
・17世紀の哲学者が考えていたのは、神様は完全な認識機能と方法を持っていて、それは人間にも伝えられていた。それが「理性」というわけ。なぜ人間が現象を完全に認識できる力を持っているのにできないかというと、いろいろ問題が人間の側にあるからで、理性を正しく使えばOKだと考えていた。トートロジーになっているのだが、そのことへの批判は相当後になるまで起きなかった。たぶんニーチェあたりからかな。
・「自然」という概念には、「生む」「なる」というような意味合いも含まれていて、たんに人間の外側にある現象とか物質とかそういうものの総体ではない。自生するパワーとか力とかそんなものがおのずと流出していくなにかなのだった。実のところ、このような自然観は近代の合理主義や科学思考とはまったく一致しないものなのだが、合理主義に抵抗する思想として、ずっとあった。それこそヘルメス主義から各種のキリスト教異端や神秘思想、新プラトン派、さらにはロマン主義なんかに通底している。
・ロマン派は18世紀の啓蒙主義の反動としておきた。理性によって世界認識を持ち、世界改造の可能性を探る啓蒙主義にたいし、ロマン派は人間が無意識的衝動に突き動かされていて、世界の完全な認識を持つことはない、人間の生は苦悩であるといった。そこで、この「世界苦」のもとにある人間の解放は真の世界を認識することであって、真は芸術の中に現れる。理性は現状確保のための価値定立であるが、芸術は意識高揚のための価値定立であって、後者のほうがより価値があるとみなした。初期のニーチェとかワーグナーなんかの考えかた。あと啓蒙主義はコスモポリタニズムをめざし、ロマン主義ナショナリズムと親和性があった。
・こういう近代批判、合理主義批判、科学批判というのは19世紀の中で起きてきた。それは逆に言うと、生産とか流通、交通、市場などにおいて、合理主義や科学が圧倒的な成功を収めていたから。そういう社会状況の批判として、定期的に反合理主義や反科学の考えが運動として起きてきた。
 まあ、いまの関心の中で、気のついたのはこんなところ。たぶん哲学を読み始めた若い読者にはもっといろいろな示唆を見つけることができるのではないかしら。世界認識を変える大作ではないけれど(たぶんそういう「大作」は「存在と時間」が最後なんだろうな)、西洋の人々がどんなふうに哲学を考えてきたかの見取り図を作るのにいい本ではないかしら。