odd_hatchの読書ノート

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小田垣雅也「キリスト教の歴史」(講談社学術文庫)

 「旧約聖書を生んだユダヤの歴史から説き起こし、真のイエス像と使徒たちの布教活動を考察。その後の迫害や教義の確立、正統と異端との論争、教会の堕落と改革運動など、古代から中世を経て近代、現代に至るキリスト教の歴史を、各時代の思想、政治・社会情勢のなかで、いきいきと描く。一般の教会史や教理史とは対照的に世界史におけるキリスト教の歩みと影響を論述し、真の信仰のあり方を問う力作。」
『キリスト教の歴史』(小田垣 雅也):講談社学術文庫|講談社BOOK倶楽部


 自分がキリスト教を気にしているのは(とてもではないが研究するとも信仰を持つともいえない)、小学校高学年のときに近くのプロテスタント教会に出入りしていたこと(祖母は天理教、父は真言宗の宗徒であったが、自分の振る舞いに文句を言われたことはない。それに中学生でクラブが忙しくなったらやめてしまった)。大学生になってクラシック音楽を聴いていると、宗教音楽を聴くようになり、その背景を知りたくなったこと。そのころから科学批判や哲学の本を読むようになり、西欧の考え方と向き合うにはキリスト教を知らなければならないと思ったこと。このあたり。で、子供のころから「福音書」などは読んでいたが、それだけでは不足なので、このような歴史書を読む。
 直前に 生松敬三/木田元「現代哲学の岐路」(講談社学術文庫)を読んでいたが、順序を逆にすると、西欧の思想史をひととおりなぞることができる。前者は19世紀からの150年ほどまでを対象にしていたが、こちらは紀元前200年ころから現在までを対象にしている(そのかわりギリシャの古代思想は対象外。でもプラトンアリストテレスは頻繁に出てくる)。
 そこで近代のキリスト教の危機に関する説明を読むと、17世紀の合理主義、18世紀の啓蒙主義無神論の立場に立っている(この言明はどうかしら、。林達夫によると戦闘的無神論はほんの数名に過ぎず、ほとんどは穏健な無神論で教義に敵対する立場をとった人はあまりいないのではないかしら。むしろ異端審問や教会の保守性などにあきれたことのほうが強いのではないかしら)。
 19世紀になるとさまざまなキリスト教批判が起きてきた。いくつかの傾向にまとめられて、(1)ヘーゲル左派からマルクス主義までの弁証法による批判、(2)ショウペンハウエル、ニーチェベルグソンなどの生の哲学、(3)コント以降の実証主義社会学)、(4)自然科学の合理主義(とくにダーウィンの進化論)、が大きな潮流になっている。著者の立場からすると、キリスト教の危機であるが、「現代哲学の岐路」の対談者からするとこれらの潮流は「理性」「合理主義」などの17世紀以来の主要な考え方に対する批判でもあるのだった(ただし(4)の自然科学は除く)。立場が異なると、見方が異なるという一例。
 さて、20世紀にはいってこれらの批判にこたえる神学研究がでてきたが(カール・バルトとかなんとかとか)、人々を納得するような理論がでてきていない。それに「カソリック教会」の保守性が問題である(16-17世紀の科学者への異端審問に対する見解の変更が1980年まで持ち越されたとか、ファシズムに対する抵抗や迫害される人々への保護が行われなかったこととか)とされる。またそれまでは他の宗教に対しる絶対性をキリスト教は持っていたが、その克服も重要。そのとき、他の宗教との交通が生まれるがこれを克服するのは容易ではない(十字軍ころ以降からの伝統が邪魔をしている)。このあたりが著者の見解。
 あとは、19世紀末にイタリアが統一されたときに、ローマ教会の宗権が世俗権力の下になったとか(バチカン市国がその時に作られたが、妥協というより世俗権力による保護みたいなものらしい)。中世に確立された宗権が変わるのに1000年かかったということになる。このあたりが興味深い。外川継男「ロシアとソ連邦」(講談社学術文庫)によると、ロシアでは事情が異なっていて、モスクワの教会をギリシャ正教の宗主にしようとしたら、民衆の大反発を受けて、最初から世俗権力の支援を必要とした。