駆け出しの小説家ベン・ミラーズは数十年ぶりに故郷の街に帰ってきた。それは二つの目的があり、ひとつは交通事故で死なせた妻の幻影を消すため、もうひとつは彼のオブセッションである幼児体験の正体を確かめるため。メイン州にあるセーラムズ・ロットという1770年ころにできた街には、マーステン館という古い館が街を見下ろす高台にあって、どこからもよく見える。そこには恐ろしい事件とうわさがあるのだ。1930年代に住んでいた当主が首つり自殺をしていて、幽霊が出てくる。ガキの肝試しによく使われて、10歳のベンはマーステン館に忍び込んで、首つり自殺の現場に遭遇する。ああ、これはキングの好きなシャーリー・ジャクソンの「山荘綺談」(創元推理文庫の改訳は「たたり」)だな。館のたたずまいはブロック/ヒッチコックの「サイコ」のベイツ・モーテル。
さて彼の帰還と軌を一にして、マーステン館がバーローとストレイカーというよそ者に購入される。バーローは姿を見せないし、ストレイカーはつる禿にセムシの異相の持ち主。骨董店を経営するといい、どこからか船で輸入された棺のような木の箱が持ち込まれる。ここらへんは、ストーカー「ドラキュラ」以来の定番の仕掛け。あいにくストレイカーはゴキブリをくうほどのことはしないけど。
この日からセーラムズ・ロットには行方不明者と死者がたくさん現れる。決まって夕方以降の夜に事件は起こり、死者は血の気を失せていて、首筋に二つの咬痕を残している。病院や自宅に収容されても、動く姿をしばしば目撃され、しばらく目を離すと姿を消してしまう。それに街には日中だるくて眠くてならず、食欲を失せてしまい、しかし至福の体験をした記憶をもっている人物が急増する。彼らはしばらくすると、死んでしまい、そして姿を消してしまう。ここらへんのゆっくりとした記述を楽しもう。登場人物が多くて誰が誰とも判別するのは難しいのだが、記述されているのは、経済発展から取り残され、人口が流出して過疎の進む田舎町の姿。1970年代にはまだ数百家族が残っていて、都市らしい仕組みは残っていても、オイルショックとドルショックとベトナム戦争がこれらの田舎町を破壊していく。多くの人が閉塞感を持っていて、家族にも共同体に飽き飽きしている感じ。この町において、吸血鬼と資本主義のどちらが大衆に無慈悲であるのかしら。1940年代のアメリカの田舎町は都会の喧騒を忘れ、人々の交流を楽しめる「懐かしい場所」だったのだがね(エラリー・クイーンの「ライツヴィル」が典型)。
吸血鬼に襲われ、人は亡者アンデッドになっていく。誰がアンデッドなのかわからない。死者が出ていることは知らされるが、なんの意図が働いていて、次の犠牲者がだれになるかは不明。ほとんどの人は漠然とした恐怖を感じながら、犠牲に供せられる。ここの恐怖はそのまま「嵐の中の山荘」だな。疑心暗鬼とエゴの表出が事態の緊迫感を高めていくのだよね。このテクニックにも注目しておこう。
ここで事件の真相をつかみ、戦いに挑むのは、よそ者ベンに、家族としっくりいかないスーザンに、生徒にうっとうしがられる老境の教師マットに、はぐれ医師ジミーに、虚弱で夢想家の少年マークに、アル中の神父キャラハン。これらのはみ出し者の6人が立ち上がる。「IT」でも幼馴染の6人が集まってITと対峙したと記憶する。6はキングにとって特別な数字。キングの小説だと、コミュニティの危機を確信しているのはごく少数、公的組織(警察とか学校とか議員とか)は鈍感で腰をあげない。なので、個人的な理由(正義の達成とか復讐とか抑圧からの解放とか)で決起することになる。まあ、これはお約束ということでよいだろう。というのも、この小説には町の雇いの保安官がいて、彼なりに真相に達しているのだが、戦いを選択しない。保安官のバッジ(正義の象徴)を部屋に置き、町を出て行こうとする。そこらへんの会話は映画「真昼の決闘」をそのまま再現しているわけ。彼の部下は、つぎの保安官の座につくことを狙っている若造であるところも。超法規的な危機において「正義」とか「公器」とかが個人の中でどのように機能するか、面白かった。
あとはバーローとの最終決戦。この150ページほど続く、だんだら坂をゆっくりと上っていくようなクライマックスは紹介しない。古い怪奇小説とB級映画の使い古されたプロットと定番シーンをそのまま使いながら、いかにモダンに描いているか、キングの意欲を楽しもう。ときどき、作家の代弁者のような語り手が鳥瞰視点で、登場人物の知ることのできない情報を提供しているのがとても親切。
というのは、この「呪われた町」をキング自身が3時間くらいのTVドラマにしているのだが(「死霊伝説 セーラムズ・ロット」2004年)、原作を読んでいるものには物足りない、というより積極的に改悪だというできになっているのだ。メイン州の寒い地域を舞台にするのは同じとしても、小説は湿度の低い初夏から夏のできごと。それが積雪のある冬に移されると、人が往来を行き来するはずなのに、だれもいないという奇妙な状況が消えてしまう。制作年にあわせて携帯電話をキャラクターにもたせたのもいけない。電話を掛けたくても、手元にない、連絡がつかないというのが、恐怖をいや増す小道具になっているのに。ここまではまだ承認可能。俺が憤激したのは、アル中のキャラハン神父の造形。彼は信仰の危機を迎え、すべての教会から拒絶されるという孤独を味わうのに(それはキリスト教徒の最大の恐怖ではないか)、それが完全に失せていること。なんだかなあ。