odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

「立原道造詩集」(角川文庫) ある種の欺瞞、あるいは仮面である一人称でしか書けなかった早世の詩人。

 これは学生時代に読んだな。記録を見ると、購入したのは1979年の学園祭の前日だ。うーん、何を感じて購入したのだろうか。個人的な追憶で甘さと苦さを感じてしまう。
 それはさておき、なるほど25歳で亡くなったこともあり、詩作活動がごく若いうちに行われているので、こうして一人称でなければ、文章を書くことが難しいのだな。自分もかなり長い間一人称でないと文章を書くことができなかったのだから。とくにこういう気分や感情を表現しようとすると、どうしても一人称になってしまうのだった。たぶん書くことと書かれる対象に間をあけることができなくて、そこを一致させないと文章をつづることができなかった。そういう感想を持った。
 それでいて、一人称の語り手はもちろん自分自身ではなく、こうでありたい・こうであってほしいという欲望を具現化した架空の語り手であるのだ。その人は限りなく自分に近いのであるから、そこで歌われた事柄は自分自身に実現したかのように思える。ところが現実の自分は、詩に歌われたような恋をしていないし、見初めた女が隣にいるわけでもなく、甘い睦言を身近に聞いているわけでもない。そのことの落差から自分を救うために、一人称で語ることが必要になるのだ。ある種の欺瞞、あるいは仮面であるのだ、一人称というのは。
 三人称を使えるようになるというのは、自分自身に仕掛けたこの種の欺瞞を克服する手立てを持つことで、それは逆に言うとある種の想像力、自分自身をヒーロー化する力を喪失することでもある。まあ、大人になるということだ。立原は結局「大人」にならないまま生を終えてしまったのだが、それは幸福なことだったのか。なんとなくの印象だが、ランボーみたいに詩を捨ててしまったかもしれない。きっとそれまでと同じような詩を書くことは相当に難しいことになったと思う。以上、根拠のない直感、あるいはチラシの裏です。
 加藤周一「羊の歌」に、立原道造がでてくる。