odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

「西脇順三郎詩集」(新潮文庫) フランス風ギリシャ趣味から中国の文人風飄々さへ。

 高校時代に読んだときはもっとも難解な詩集だったな。そのころは詩集を読むと、気に入った(というより不遜であるが「ぼくが考えたさいきょうの」)詩にチェックを入れていた。たいてい3分の1くらいにチェックが入ることになるのだが、この詩人の場合最初の「アンブルバリア」の数編にチェックが入ったあと、一切消える。この人がシュールリアリストで、自動筆記のような詩を書いていたことなんか知らなかったから。一行ごとにイメージが飛んでいく詩に、たとえば高村光太郎のような「意思」なんかを読み取りたかった高校生には、「詩」らしくないと思ったのだろう。あの長大な「旅人かえらず」はニーチェの「ツァラトゥストラ」みたいだなと感じたくらい。
 今回の読み直しで気付いたこと。
1.初期詩編の「アンブルバリア」のギリシャ風味は、彼の個人的なところによると思っていたのだが、この詩人は第1次世界大戦前にフランス留学していたのだった。その時代は、フランスでギリシャ(を含めた異郷)趣味があったのだった。だから、今回読んでいるときに彼の詩からは、ドビュッシーラヴェルあたりの音楽が聞こえてくる。詩人の幻視のうちにあるギリシャは、ギリシャそのものではなく、当時のフランスというレンズを経由したものであって、さらには西脇順三郎という個人のレンズも通っているのであるのだ。
2.後年の詩編には、茄子などの野菜が歌われ、畑のにおいが漂っている。「シュールリアリズム」を輸入したり、博覧強記の文物が古今東西から引用したりと、この人は知的であることで評価されるのだが、畑や野菜の具体的な描写を読むと、この人、畑仕事をしているなと思う。それくらいに生々しい。逆にいうと、西脇の記述からかつて畑仕事を手伝ったときの感覚がよみがえってくるということだ。伝記を調べたわけではないので、憶測に過ぎないけれど、畑仕事を存分にやった人なのではないかしら。これほど土や植物のにおいを生々しく感じさせる文章を書いた人はいない。似たような立場にいると思われる宮沢賢治の文章から、こういうにおいを感じたことはない。
 「アンブルバリア」から「旅人かえらず」までの詩集前半分はこ難しさが先走っていたのだが、後半に入ると高度経済成長以前の都市や少し離れた田舎の風景を詠んだものと思え、その飄々さが中国の文人のようで、大上段になることなく、気軽に読者が読めるものになっていた。

    
 ネットで調べたら、西脇はエリオットの「荒地」を訳していたのを思い出した。この訳もまた良かったなあ。