odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

アガサ・クリスティ「アクロイド殺人事件」(新潮文庫)-2

 村の未亡人が自殺した。一年前に夫を毒殺したといううわさがたてられていて、ようやくそれも消えようというころ。その翌日、村の財産家ロジャー・アクロイド氏が夜分になにものかに刺殺された。ロジャーの家にはその夜、たくさんの訪問者がいて、下がっているよう命じられた執事はだれといっしょにいたかはわからないという。死体のみつかった書斎からは一通の手紙が品質していた。自殺した未亡人の書いたものらしい。この財産家は独身であったが、屋敷には前妻の息子の大尉がいて、妹とその娘が住んでいた。大尉と娘は婚約が決まっている。奇妙なことに大尉は事件の後に失踪し行方が知れない。財産家の遺産の多くを得られるというのに、なぜ失踪したのか。ほかにも若い秘書や執事、家政婦に小間使いなどの雇用人がいて、財産家の友人も足しげく出入りしている。遺産相続からすると、だれにも動機がありうる。田舎のことなので(しかも新聞やラジオはまだ普及していない)、多くの人が興味を示し、うわさをし、人々の出入りを証言する。これらの子細を財産家をよく診察する医師が克明な記録をつけていた。その記録は、のちにポワロによって読まれ、事件の鍵をを提供するであろう。それが本書である。

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 すでに犯人も、動機も、方法もすべて知った上での再読だったのに、とても満足した。事件の重要な手がかりは死体が発見されるまでの本書の4分の1までに書かれていて、しかもそれがとてもさりげないので、読者はポワロの検証が始まるころにはすっかり忘れているだろう。そのうえ、医師の記録する些事がのちに重要な手掛かりになる。人がしきりに出入りし、その意味が重要でないと思い、いい加減に読み飛ばしたところが、最後の解決に深くかかわる。多くの人は「メイントリック」にフォーカスすると思うが、むしろ張り巡らした伏線を回収する手際に驚いた。このやりかたは、1940年代の長編で花開くのだが、こんな初期の作で実現していた。
 今回の再読は新潮文庫で。これまでに創元推理文庫(大久保康雄訳)、ハヤカワポケットミステリ(松本恵子訳)で読んだが、新潮文庫(中村能三:よしみ訳)がもっともこなれていると思った。これまではキャロラインという詮索好きでおしゃべりな老嬢がどうにも気に障っていたのだが、本書ではかわいらしく思えた(なるほどミス・マープルの前身だけある)。ほかのキャラクターも生き生きしていて、これは訳者の手腕でしょう。
 社会学的な読み方は前回のエントリーを参考に。
2012/03/17 アガサ・クリスティ「アクロイド殺し」(ハヤカワポケットミステリ)
 よくこういうことを考えたものだと、過去の自分に驚く。 

さて、以下はネタバレになるはずなので、未読の人は読み飛ばすように。


 フェアかアンフェアかという議論は、もっと巧緻な騙しで書かれた作品がでているので、いまとなっては意味がない。むしろ1950年代ころから本格ミステリのトリックの枯渇が心配されたときに、本書のやりかたが別の道を開いたということで評価した方がよいと思う。このトリックはクリスティのオリジナルではないということが作品が出たとき(1926年)から言われていた。この国の作でも谷崎潤一郎のものがある。それよりなにより、本書はエドガー・A・ポーの「お前が犯人だ」の見事な換骨奪胎だと思い返してもよい。

 2018年4月14日に三谷幸喜の脚本による「黒井戸殺し」が放送された。「アクロイド殺し」を敗戦直後の日本に舞台を移した翻案もの。他の登場人物も含めて極めて原作に忠実だった。テレビドラマでは一人称視点で描くことはできないので、小説の語り手を主人公にした三人称の映像になる。そうすると、真犯人の行動がマヌケに見えて、犯人あては簡単にできてしまう。あの一世一代のトリックはテキストのなかにしかありえないことを再確認できた。

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