odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

伊坂幸太郎「SOSの猿」(中公文庫) エアコン販売員の話をAとし、品質管理社員の話をBとしたとき、AとBは別々なのか、どっちがどっちかの入れ子なのか。

 二つの物語が交互にかたられる。ひとつは、エアコン販売員でエクソシストの資格を持つ中年男性が、引きこもりの高校生をカウンセリングする話。ローマに絵の勉強にいったが、そちらはものにならず、代わりにエクソシストの資格を取ったという変わり種。彼は人の発するSOSを感受する繊細な神経の持ち主であるが、コミュニケートがうまくないので、介入してうまくいくことがめったにない。今回もいやいやながらの人助け。もうひとつは、猿が語り手の、システム開発会社の品質管理社員の話。こちらは自社開発した株の発注システムが誤動作して300億円の損失を出した原因を調べる。酒も飲めず生真面目で几帳面な性格で、人から好かれないが、そのことを気にもしないという悠遊ぶりなひと。入力ミスのようなヒューマンエラーの発生原因を調査する。100ページまで読んだときに思ったのは、表面上は異質だけど、ふたつは同じ話なのだということ。すなわち、生命を入力−出力系とみなすと、引きこもりも誤発注もシステムのエラーであり、システムの内部を知らなくても、原因究明は可能であるという考え方。そうすると、人の性格や空気を読まないコミュニケート障害があっても、原因究明と解決策の提示はできるのだという見方が可能になる。
 この二つの話では「暴力は善であるか悪であるか」とそれぞれで問われる。というのも、高校生や誤発注した社員は他人の暴力を目撃していて、それを止めない/止められなかったことを苦にしているから。もちろん、暴力が善か悪かはケース・バイ・ケース。危害を加えられそうなときの防衛のための暴力はある範囲で認められているし、国家は警察・軍隊・司法などが暴力を使うことができる。悪政や圧政に対して国家権力を打倒する暴力も肯定される時がある。ヘイトスピーチヘイトクライムはこの国では法で規制されていないが、西洋諸国では犯罪になっている。一方で、自力救済の行動は制限されているし、過去は家庭や教育現場などでの暴力も肯定されていた(いまは制限するようになっている)。そういう具合に暴力の生じる現場と使用者によって、暴力は肯定も否定もされるでのあって、「暴力」全般を考えるのは筋の良くない考え方。まあ、自分も若い時には、こういうオール・オア・ナッシングの思考をすることがあったなあ、と懐かしい。

 さて、二つの話は奇妙なねじれ具合を示す。すなわち、引きこもりの高校生はトランス状態になったあと、自分が「孫悟空」であると宣言し、孫悟空の物語を話し出す。そして予言をし、エアコン販売員と高校生の親は予言を確認するための行動をする。すると、システム管理会社の品質管理社員と邂逅し、孫悟空の話がほぼ彼の過去と一致していることがわかる。
 エアコン販売員の話をAとし、品質管理社員の話をBとすると、それまでAとBはそれぞれ独立しているが、同一の時空間で起きているはずであった。それが、BはAに登場する人物のみた夢・予言であるとされる。すなわち、BはAの話の中に含まれてしまうわけだ。というもの、実在する品質管理社員の経験はほぼAの話の中のBにあっているとはいえ、微妙なずれ(名前、シチュエーションなど)があるから。しかし、Bの話の幾分かは実際に起きていることでもあり、エアコン販売員や高校生の親たちは品質管理社員といっしょに、二つの話に共通する事件(男による女と子供の監禁・暴行)の解決に動く。ここでまた「暴力は善か悪か」の問題が取り上げられるでの注目。むしろその問いよりも困っている他者に介入するべきか、見過ごすのが良いのか、解決能力のある第三者に通報するのが良いのかという問いかけのほうが読者の現実には切実かもしれない。「あるキング」の「フェアはファウル、ファウルはフェア」の問いかけはこちらのほうにふさわしかったなあ。
 とりあえず物語の整合性を取ろうとすると、こういう解釈になる。でも、と自分は思う。そのような安定な立場で物語は語られているのか、もしかしたら全体は一人の妄想、妄言である可能性はないか。というのも、二つの物語がまじりあい、エアコン販売員と品質管理社員が一緒に行動する話をCとする。すると、このCがもっとも「現実」を描いたことになるのだろうが、そのとおりか。むしろ、ほとんど物語に姿を現さないが物語の進める力になっている引きこもりの高校生の妄言、妄執の中に組み込まれているとしてもよいのではないか。全体の語りはエアコン販売員にあるようだが、彼も高校生の妄想にあるキャラクターではないのか。すなわち、物語全体がトランス状態になった高校生の妄言ではないかと推定できる。
 あるいは、その高校生自身もエアコン販売員が妄想した中のキャラクターではないのか。引きこもり高校生の問題解決に自信のないエアコン販売員が自分に都合のよいような話をでっちあげているのでないか(なにしろ彼は人の妄想や内話を見ることができる異能の持ち主)。そんな具合に考えると、どこが物語の地でどこが図なのかわからなくなる。この混乱や不安が読書のあとに残ってしまう。
 そういう混乱や不安を読者に残したということで、この小説は成功している。頭の良い作者が頭の良いことを隠さずに書いた小説なのだなあ、と改めて確認。
 2008−9年に新聞連載されて、2009年に単行本化。加筆訂正されて2012年に文庫化。あとがきには、あるマンガとリンクしている云々が書かれていたが、そのマンガは知らないので、ここでは言及しない。