odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

伊坂幸太郎「あるキング」(徳間文庫) 最下位であることを決められた弱小球団に現れた無口の神話的英雄を凡人が語り継ぐ。

 昔、千葉県松戸市にパイレーツという職業野球団があって、これがめっぽう弱くてのう。9回の試合がいつ終わるか見当もつかなかったもんじゃ。そこに富士一平なる優秀、生真面目なピッチャーが入団することになって、すこしはわしらも期待したものじゃ。
 という、爺さんの昔語りはおいておくとして、仙醍(せんだい)なる架空の田舎都市にある製菓会社がなんと球団をもっていた。名付けて仙醍キングス。これもまた最下位であることを決められた弱小球団。なにしろオーナーが勝利を期待していないし、強くするための投資をするつもりもなく、ドラフトで優秀選手を引き当てると困惑するというありさまだった。そこに山田王求(おーく)という選手が入団。わずか4年たらずの短い期間におそるべき成績をあげて、こつ然と姿を消した。というのが、表層のストーリー。(解説はアメリカの野球小説との類似をみているが、自分だと佐藤紅緑「ああ玉杯に花うけて」青空文庫高橋源一郎優雅で感傷的な日本野球」を思い出すな。前者は貧乏人の子弟が通う私塾がエリート校の浦和中学に野球で勝負する話で、後者は「間違って」1985年にリーグ優勝した常負球団・阪神タイガースの物語。)

 その裏には、たった一人の有名選手が最後の監督の試合で死亡したとき、キングスのファンの夫婦に子供が生まれた。親は子供にたぐいまれな野球センスのあることを知り、英才教育をする。彼はそのとおりに天才として育っていった。親のまわりには黒衣の三人がときに現れ、不思議な言葉を語り、未来を予言する。その言葉は「フェアはファウル、ファウルはフェア」というシェイクスピアマクベス」のもの。マクベスが魔女の予言のままに翻弄されるのと同じように、天才・山田王求もまた運命に翻弄される。
 天才野球選手はそのすばらしい打撃(なにしろ打てばホームランかヒット、あるいは四球死球で打率は8割を超え、ホームランの記録のほとんど塗り替える)で、周囲の人を驚かせる。でも、この青年はあたりまえのことをあたりまえにしているので、人々の驚きや賞賛や嫉妬を認識することができない。感情にとぼしく、論理で語れず、肉体でもって表現するしかない。我々の知っている人物に当てはめるなら、ベーオウルフヤマトタケルであろう。そのとおりに、これは神話的な英雄がこの世界に舞い降りてきた摩訶不思議な物語なのだ。英雄は人間の理解を超えている。口を開けて呆然とみるしかない。
 だから、マクベスに由来する「フェアはファウル、ファウルはフェア」の問題は、英雄には無関係。善悪、美醜、損得、上下などのように二項対立で物事を判断する傾向が凡人にはあるが、じつのところ対立の境界は不分明。人の依って立つ場所からすると、善と悪、美と醜が逆転することもあるよ、そういう命題かな。この問いは、王求の周囲の人々にとってだけ意味を持つ。たとえば、息子が実践の打撃をできるよう敬遠をしないように相手監督に金を払う、錯乱した大人が子供を襲撃するのを止めるためにバットでボールを打つ、息子のいじめに抗議するために相手の家に殴りこむ、というのが具体的な問題。なにかとても深刻な問題であるかと思ったが、自分には肩透かし。まあ、誰もが「大審問官」や「野火」のような難問を設定できるわけではないからね。文庫の解説者はここにフォーカスしているが、それもまた解説者の韜晦なのではないかとかんぐってしまう。
 未来と過去を知っている万能の語り手のほうがむしろ黒衣の三人よりも正確に予言しているのがおもしろい。語り手は、複数のナラティブを使って(三人称が主だけど、ときに二人称になり、作中人物の誰かに憑依して一人称で語ったり)、物語をさまざまにみる。そうすることで、英雄のまわりの人々の内面(というのはあるのかな)を示していき、英雄の中身がからっぽ、がらんどうであること(英雄とはそうしたもの)を巧妙に隠す。そうやって隠すから英雄の見事さ、素晴らしさが高じていくわけだ。
 とはいえ、この英雄はどうにも生まれる時代と場所を間違ってしまったとしか思えない場違いな観があって、彼がかわいそうだった。ベーオウルフやヤマトタケルのような神話時代でないのは仕方ないとはいえ、数十年前なら石川淳「荒魂」の佐太や「狂風記」のマゴにもなれそうなものを。あるいは大江健三郎同時代ゲーム」の壊す人のようにエネルギーを発散できたものを。野球グラウンドは山田王求のような英雄には狭すぎるよな。そういう英雄が生きるには、この世界も小説世界も世知辛くなったのかなあ。
 作者のことは全然知らないけど、頭のいい人が頭の良さを隠そうとして隠しきれなかった小説だなと思った。いろんなことを知っていて、海外文学を読み漁っていて、そのことに照れがないのに好感。2009年に単行本ででて、加筆修正して2012年に文庫になった。

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