odd_hatchの読書ノート

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網野善彦「日本の歴史をよみなおす」(ちくま学芸文庫)-1

 この国の通史を勉強するのに便利なのは、中央公論社の「日本の歴史」シリーズ。昭和30-40年代にこの国の歴史家を動員して書いたこの浩瀚な大著は読み通すのも大変。とはいえ、その後、この国の歴史の研究の仕方が変わったらしい。単純には過去の歴史書を読んで解釈することから、同時代の古文書を読み、考古学などの科学研究の成果も反映し、さらに地方の豪族や荘園の遍歴を見たり、絵巻物などの視覚の記録も利用していこうというもの、といえるか。本職の人たちにはおこっれそうな乱暴なまとめかた。
 その結果、戦前の皇国史観からも、戦後民主主義時代の歴史からも、見えてこなかったことがたくさん明らかになってきた。それは読者の「常識」を揺るがすものであってとても面白い。そういう新しい歴史の見方を提案する学者の一人が網野善彦。この人は中沢新一の叔父になるのかな。中沢の発言には網野の研究がよく反映しているので、併せて読むと興味を沸くかも。
 大きな主張は、この国は14-15世紀に大転換が起きた。社会の仕組みから経済のやり方から、人々の思想に至るまで。その大転換は今まで見過ごされていた。でも、古い資料を通じてみると、とくに中世の民衆の生活はとても活気があって、封権時代の江戸時代よりも現代の「自由」「権利」に通じる思想や運動があった。

文字について ・・・ この国の識字率は非常に高く、職業関係なく江戸時代末期までに識字率は40-60%であったと推定される。その理由は、平安時代から統治者は地方の荘園、豪族などが字を読み書きできる前提で、文書主義の統治をしていたため。同時に読み書きが栄達の道具でもあり、都市文化の憧れを持たせるものであったので、競って読み書きを勉強していた。あと、鎌倉時代までは文字に畏敬をもって丁寧に美的な字を書いていたが、13-14世紀になるとぞんざいな書き方になっている(言霊云々といっても、民衆まで下りていたのはその時代までなのだろうな)。この国の文字には、漢字・ひらがな・カタカナの三種類があり、これは世界の中でユニーク。また文字は使い分けされていて、漢字は公文書や儀式用。カタカナは口述用。ひらがなは日常用。カタカナは僧侶がよく使い、ひらがなは女性が多く使った。
貨幣と商業・金融 ・・・ 章のタイトルが14-15世紀に劇的に変わったことを祖述。貨幣については、7-8世紀ころに鋳造されたが、交換価値として使用されることはめったになく呪術的な意味を持っていた。11世紀になって中国や韓国との貿易により大量の銭が流入し、国内の貨幣経済が普及する。それ以前は、1)贈与互酬の経済、2)米や絹が交換価値をもっていた。で、銭を使う貨幣経済には市場(いちば)ができることが重要。そこは世俗の世界から切り離された聖なる世界で、そこに入ることによって世俗の関係がなくなり、貨幣を使った経済ができる(贈与は顔見知りの間で行われるが、貨幣経済の市場では見知らぬ者同士で交換が行われる。この無名性が貨幣経済で重要)。14世紀以前は、職人・工芸技術者・巫女・役者・博打打など貨幣経済にかかわるものは神や天皇の直属民であって、聖なる資格を持っていた。金融機能も寺社が行っていた。それが転換して世俗化されるのが14-15世紀。上記の神や天皇の直属民であるとされていたものが賤しいものとされるようになり、寺社の代わりに守護大名などに保護を求めるようになった。あと、鎌倉新宗教の寺社が金融・勧進などで経済の仕組みを変えることに大きな役割をもった。ほう、斉藤道三の生涯をみるとこの転換のはっきり見えてくるな。
畏怖と賤視 ・・・ 奈良時代の前までは差別はないようであった。奈良時代になって戸籍を作り賦役を課すようになると、賦役に耐えられない人を救済する仕組みを用意した。そこには、社会の共同体に入れなかったり、出ていくことになった人が集められる。身寄りのない人、捨て子、身体障碍者、ある種の疾患を持つ人など。彼らは聖なる存在でケガレをなくす力をもっていると思われていた。このような非人、犬神人(いぬひじにん)は特別な職務と権限を持っていた。ただ9-10世紀から京都の貴族や荘園主は彼らを保護する経済力を失ったので、自活するようになる。あと、ケガレの観念で重要なのは、ケガレた場所(死者、出産、出火など)を訪れるとケガレは伝染するのであるが、河原・道など開かれた場所(=市場の立つようなところか)ではケガレは伝染しないとされた。
 このような非人とは別に河原者と呼ばれる集団もあって、つまりは河原で行われる業務(牛馬の解体や獣革の製造、井戸掘り、造園、芸能など)を行っていた。河原が無縁、共同体の範囲の外にあることに注意。彼らは神や天皇の直属民として畏敬の対象になっていた。もちろん平民や武家、寺社などと密接に交流することはなかったにしても。で、鎌倉新宗教は彼らに積極的に布教していったのが重要。
 なおこのような非人や河原者への畏敬は14-15世紀に大転換。穢れ多きものという呼称が生まれるようになり、江戸時代の被差別民の固定化に進んだらしい。あと、注意しないといけないのは、国内で均一な出来事ではなく、東日本と西日本ではそうとうに違う状態であったらしいということ。
女性をめぐって ・・・ 唐などの中国の中央集権制を導入したので、建前としては6-8世紀からこの国は父権制であるとされるが、実態としてはそうではないようだ。ルーズな近親婚があって女性に財産の所有権があり、離婚をする権利ももっていたようであるし、商いの主な担い手でもあった。また女流文学の豊かな系譜があるというのも、貴族社会で女性に何等かの権利を持っていたと思わせる。そのような状況は16世紀まで継続していたようだ。フロイスの記録を見ると、その種の記載がたくさんある(自分には「どちりな きりしたん」の記載も興味深い)。この背景には女性が聖なる存在であるとみなされていたことに由来するかもしれない。だが江戸時代になって父権制が建前だけでなく実質まで徹底すると、女性の差別が起こるようになっている。
天皇と「日本」の国号 ・・・ この国の名と天皇の呼称が定着するのは8世紀の後半。なので、それ以前には「日本人」はいなかったことになる。さて、この国の天皇には律令風・中国風の皇帝の顔と、未開な社会に生まれる神聖王的な顔のふたつをもっている。後者の例には、毎年に最初の収穫を天皇に献上する風習であったり、姓や官位は天皇から与えられるものであったり、職人・商売人・芸能人などが天皇の直系であると自称したり天皇からの系図を持っていたりすること。あと、9世紀から15世紀くらいまではこの国には複数の国家があったとみなせる。平将門とか鎌倉幕府など。これらの東の武家政権と西の天皇の政権が相互に影響しながら別個の権力をもっていた。ときには天皇が途絶える可能性もあった。しかし、そうでなかったことの意味は大きい。最後の危機は織田信長の野望であったが、中途で挫折し、その後継者(秀吉、家康)は天皇家と宥和的な政策をとり、現在に至る。とはいえ、江戸時代でも天皇は政治に影響を持っていたらしい。


 以上で前半終了。

網野善彦「日本の歴史をよみなおす」(ちくま学芸文庫)-2