odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

黒井千次「永遠なる子供 エゴン・シーレ」(河出書房新社) シーレの作風の変化は、彼の自意識が中二病のような子供の独我論から、大人になって他者がいる世界を発見したという青年男性の成長心理で説明できる。

「1918年にウィーンで28歳の生を閉じたシーレの絵が現代人をひきつけてやまない秘密はなにか。天才画家の短い生涯をたどり、秘められた精神と感覚のドラマを追究する画期的労作。」

 初版は1984年。たしかにこのあと数年間、バブルが終わるまでの間、エゴン・シーレはよく紹介されていたと思う。ここにも登場するヘルベルト・フェリーゼ監督の映画「エゴン・シーレ」も一時期はVTRででていたのだった(DVDは廃盤?)。
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自分も少しはこの奇妙な画家に興味を持っていた一人ではあった。その神経質で痙攣的な線と大胆で暗い色に妙に魅かれ、一方で遠ざかりたい気持ちになったものだ。まあ、自分の感想はどうでもいいや。
 シーレの短い生涯からトピックをこの本を元に取り上げると、
・1890年生まれ。駅の責任者である父は梅毒病み。子供に非常に厳格に望む暴君であった。また当時の少年教育も同様の厳格さ、暴力性をもち、暗い少年期を過ごす。絵を書き出すのは10歳くらいから。14歳のときに父死亡。
・16歳でウィーン美術アカデミーに入学。教官からはなかなか認められない。この時期から4歳下の妹と親しい関係を持つ。
・19歳でアカデミーを退学。同時にクリムトからモデルの一人、4歳年下のヴァリ・ノイツェルと21歳から同棲生活。幼児を自宅のアトリエに集め、裸にしてスケッチしたりする。それらがもとで「不道徳」「未成年誘拐」の容疑で24日間の獄中生活。
・25歳でヴァリと別れ、エディット・ハルムスと結婚(ヴァリは1918年に死亡)。1916年に第1次大戦勃発と共に徴兵される。上官の許しを得て前線に行くことはなく、絵を書く機会を与えられる。1917年には個展が開かれる。
・1918年大戦終了。エディットが妊娠するが、スペイン風邪が元で10月28日死去。4日後の31日にエゴン・シーレ死去。享年28歳。
 残されたものは、油絵、スケッチ、いくつかの文章など。とりわけ劇的な人生というわけではない。ただ、妹との近親相姦疑惑とか、幼女趣味とか、自分のオナニーをスケッチするなど、性を抑圧する社会において性表現に傾倒した奇妙な画家、および病的な線や孤独観・自己不安などの神経質な表現をする画家として興味をもたれていた。まあ最初に読んだ30歳前後のころには、彼に共感するところは大きかったのだが、中年を超えて老年を目前にしているとなると、こういう画家の過激な表現は落ち着かないし、体力が追い付かない(そこは作曲家マーラーにも共通する)。クリムトとかシーレ以外にもウィーンには強烈な性表現をした人物がいたのであって、たとえば妹と近親相姦したあげく(これはうわさとのこと)自殺するという悲劇的な人生を送った詩人(ゲオルグ・トラークル)もいるのだった。
 なぜ、こんなに冷たい文章しか書かないというと、この本にまるで魅了されなかったから。もしもこの題材を堀田善衛吉田秀和が書いたらどうなっただろうかと読書中考え続けていた。たとえば、シーレのアカデミー入学を記述するにあたり、数歳年上で受験に失敗したヒトラーを登場さすのだが、別の作者であれば、もっと膨らませたに違いない。当時の労働運動、ビスマルク以来の鉄血政策、レーニンその他の亡命革命家などをからめただろうに。あるいはウィーン美術アカデミーの保守性を述べるのであれば、歌劇場の音楽監督であるマーラーを登場させるだろう。当時のオペラハウスの常識を覆す改革をしたマーラーをウィーン人は追い出すのであり、後釜が生粋のウィーン人であるワインガルトナーであるとなると、シーレのこともよくわかるのではないかしら。
 最も困るのは、シーレの絵画についていろいろ述べているとき、シーレ自身がちっとも浮かび上がらず、作者の背中ばかりが見えてくること。自分は別に作家である作者の解釈を読みたいとは思わないのに、彼の感想ばかりが書かれるとなるとねえ。堀田善衛ゴヤ」が懐かしく思われた。あれは、この種の画家の評伝としては大傑作であることを再認識。

 さて、以下は個人的な事柄。1991年にこの本を読んだのは、そのころつきあっていた女性からシーレの絵葉書をもらったからだった。2枚のうちの一枚は「四本の樹」。自分のどこをシーレにみたてたのかしら。どこかの会話でシーレを互いに知っていることを確認したのが理由だろうけど。もらった直後に振られた。そのとき、別の男との結婚を決めたといわれた。昔話ですまなかったねえ。



<追記2023/4/23>
 NHK日曜美術館でシーレの特集をやっていた。そこの解説が全部的を外していたと思ったので、メモ。
 シーレの人生で重要なのは、父の梅毒死(17歳)、少女の裸体画制作で逮捕(22歳)、エディットとの結婚と従軍(25歳)。そこにウィーン世紀末の社会状況を重ねる。すなわち、急速な近代化による格差拡大、そして梅毒蔓延。幼少から絵がうまかったシーレ(10歳で書いた汽車のデッサンのみごとなこと)。彼のオブセッションは3つ。父の梅毒死(自分もああなるかもという恐怖)、特殊性癖(自涜癖、少女愛、彼には妹との近親相姦のうわさもあった)、強い自意識。これらは世紀末ウィーンでは隠さねばならないこと、人に知られてはいけないこと。これらへの強い抑圧と禁忌意識、それを克服できない自分への懲罰意識。社会ののけ者であり、のけ者でなければならないという自閉的な意識。一方で芸術家として表現して他人に認められたい自意識と欲望がある。自意識-自己懲罰、表現意欲-隠匿。この相反する欲望と意識が彼を分裂させ、落ち着かせない。したがって16歳で芸術学校に入学した後の表現対象は、<この私>である。<この私>だけの世界の表出なので、分裂や相反、表現と隠匿、陶酔と懲罰が現れる。それが初期作品。
(自画像などにでてくる血のように赤い男性器は、性器切除をイメージさせる。自画像などの空虚な表情、うつろな目つきなどは父の亡霊が憑依しているかのよう。)
 転機は25歳にエディットと結婚したこと。<この私>だけの世界に、<この私>と同じだけの重要な存在である<あなた><汝>がシーレに現れる。そこで表現の対象から<この私>が後景に退いて<あなた><汝>がテーマになる。エディットの肖像や従軍先で便宜を図ってくれた上官の肖像画など。従軍から帰還して様々な注文が舞い込み生活が安定する見込みができた。
(父の死や梅毒罹患の恐怖が消え、社会に受け入れられない性癖も抑えることができた。エディットの肖像や「家族」では表情が和らぎ、安定と信頼の雰囲気になる、シーレ自身の顔も責任感がただよい保護者然としてくる。彼の意識が大人に変わった。25歳というのはそういう時期。)
 スペイン風邪に罹患して28歳で亡くなる。彼の仕事は中断される。その先の可能性は失われた。
 という具合に、シーレの作風に変化は、彼の自意識が中二病のような子供の独我論から、大人になって他者がいる世界を発見するという青年男性の成長心理で説明できる。彼の文章も当時のドイツ-オーストリアではよくある芸術論や美学の文章の反映で、独自なものではない。解説者が言うような「人間とは何かを考え抜いた」「生と死の共存」などは的外れ。20代の青年はそんなに深いことを考えてはいないよ。絵画の評論では、いまだに哲学や形而上学、人生訓をみようとしているのかしら。クラシック音楽の見方はこの50年で刷新されて、吉田秀和みたいに「精神」を読み取ろうとすることはなくなったのだが、美術論ではまだ残っているのかな? 作品をみるときには、作者が置かれた年齢や場所、社会情勢、芸術動向、ライバルや先達の影響関係などを見たほうが良い。登場する評論家はそこに全く触れなかった。そしていきなり「生と死」「人間とは何か」などの哲学や形而上学に飛んで行ってしまう。それは評者の自己投影に見えるのだ。評論や批評の仕方がとても古い。