odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ジョン・ディクスン・カー「囁く影」(ハヤカワ文庫) 古い高い塔で起こる不可能犯罪は吸血鬼の仕業か。複雑なプロットを見事にまとめるカーの傑作長編。

 時は1945年。戦争の傷跡深く、交通インフラその他が復旧していないが、生きる意欲の高い時期。元歴史学者で傷病兵(薬害で長期間入院していた)のマイルズ・ハモンドは遺産を受け取り、古い屋敷の古文書を引き取る。司書を雇ったところ、絶世の、しかも薄幸の謎めいた女性が応募してきた。おりしも妹マリオンはフィアンセと結婚をあげる予定であり、ともども4名がサウザンプトンの屋敷に集まる。
 というのも、前日にフェル博士主催の「殺人クラブ」に招待され、そこで1939年のフランス郊外の田舎町で起きた未解決事件の話を聞いたからだ。そこには高い古い塔があり、皮革業者の父が息子といさかいを起こした様子であり、父が息子に出ていけと告げた直後、塔の頂上で背後から刺殺され、数千フランの札束がブリーフケースともども消失した。塔の下にはリゴー教授と秘書のフェイ・シートンが居合わせたのであるが、塔の出入りは目撃していない。フェイ・シートンは息子から言い寄られた様子であり、最も疑わしい。しかし証拠不十分で釈放されるが、すぐさまナチスに占領され、事件はうやむやとなる。
 リゴー教授はこの事件を「吸血鬼」の仕業といい、その話を聞いたフェル博士もさもありなんと被害者の首筋の傷に注目するのであった。マイルズも次第に教授のいう「魔性」におびえるようになる。

 さて、マイルズが雇いいれた司書は実にこのフェイ・シートンであり、初心なマイルズはすぐさまひとめぼれ。リゴー教授もマイルズの屋敷を訪れ、君か妹さんは事件に会うかもしれないと謎めかす。実際、その夜、出入りのない部屋で思うとマリオンは危害に受け、リゴー教授の必死の介護で一命を取り留める。狂乱するフィアンセ・スチーブをなだめるところに、フェイが現れると部屋の中を見て驚愕の表情を見せ、翌朝メモを残して失踪してしまう。
 塔の上、密閉された部屋での刺殺に薬物中毒と、不可能犯罪が2回も繰り返される。そこにリゴー教授というわれわれ読者の代表のようなそそっかしくて、オカルト好きで、他人の不幸を詮索したくてたまらない人物が引っ掻き回してくれるので、事件は錯綜していく。もうひとり、新聞記者のバーバラ・モレルも職務を逸脱しそうなくらいの熱意で事件を捜査し、マイルズに協力する。核心に迫るとなにか口ごもるのも怪しい。
 ここらの書き方がおもしろい。自分は、古い塔に起きた過去の殺人、謎めいた美女、初心な青年の一目ぼれ、美女の失踪というストーリーから黒岩涙香「幽霊塔」を思い出した。歴史学者としての前途は暗く、戦争の惨禍にあって生きる意欲を失いかけている男が美女と出会って、情熱的な行動家に変貌。そこから逃げていく美女(胸中に隠している秘密はいったいなにか?)。ラブシーンはほとんどなく、ガールを見出したボーイが走り回るのを見守るのだが、その熱情にはうたれるところがある。クライマックスで、美女を守るために駆け回るマイルズのけなげなこと。フェイの美しさと物悲しい雰囲気の哀れなこと。
 このようなラブロマンスがらみのミステリというと作者はほかにもたくさんあるのだが、重要なのはこの作の手がかりのばらまきとその回収がみごとに決まっていること。トリックは独創的というには程遠く、むじろプロットの複雑さが事件を難解なものにしている。なので、事件及びその前後の行動や失せものに注意を払わなければならず、その描写はちゃんとあるにもかかわらず、読者はまず見逃すだろう。そうしてフェル博士が赤ら顔をさらに真紅に染めながら事件を語るとき、ささいな描写が全部一連の意図のもとに再構成されていくのに驚愕するのだ。真犯人は意外さにこだわっているようで、まあ、カーにはよくあるので驚きはそれほど感じない。それより事件の関係者全員がなにかの思惑を持っていて、それを隠しながら生きていたこと、それが暴露されたのちにトラウマを引き受けて生きねばならないことが心に残る。
 珍しく戦争が大状況にあり、戦争がなければ、トリックが成立しなかったというのもカーには珍しい。これも貴重な作。それに現在(1945年)の事件では、インフラの破壊と電力網の喪失が背景にある。なので、二つの事件には電灯はなく、ランプかろうそくの灯しかなかったことを頭に入れておかないと事件の不可解さが了解できないので注意すること。とくに、2番目のマリオン毒殺未遂事件で、フェイが驚いたのはそのような明かりであったことが前提。
 オカルティズムと不可能犯罪という評価軸では、この作の優れているところをみいだせない。それ以外のところに目を向けて読むべし。中期のカーの作では「貴婦人として死す」「皇帝のかぎ煙草入れ」あたりとならぶ作。探偵小説の技術ではこちらのほうが優れている。1946年初出。