odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

深水黎一郎「ミステリー・アリーナ」(講談社文庫) 犯人を決めつける前のシュレディンガーの猫的な状態を小説にする離れ業。

 面白かった。でも、感想を書きずらい。というのも、筒井康隆の実験小説と同じように、作品のねらい、技法などが作中やあとがきに懇切丁寧に書かれているから。なので、付け加えることがほとんどない。

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 なるほど、ミステリーが始まると、たくさんの登場人物はそれぞれ犯人の可能性を等価にもっているが、現場の状況や関係者の証言などを積み重ねていくと、犯人の可能性がかぎりなくゼロになる登場人物が現れて、最後には一人だけ犯人の可能性を100%残している人物だけになる。逆にいうと、それまで登場人物は犯人であるのか犯人でないのか決定できない状態に置かれていて、ある観察が行われたとたんに、犯人もしくは非犯人に収斂する。このアイデアが秀逸。あらゆる登場人物に犯人の可能性があるとなると、すべての「解答」は等価である。でも。実際にはどれかひとつだけが正しい「解答」とされる。そこには作者の意図があるのだが、ここは通常カッコに入れられて不問にされる。ないしはそこには触れない(とはいえ、ときには名作の読み直しが行われて、「金田一さん、あなたの推理は間違っています」などとちょっかいが現れることがある。)
 この量子力学的、シュレディンガーの猫的な状態は読者の読みの最中にしか現れないと思うのだが、それを小説にしてしまった。可能にしたのは、読書の進捗をそのまま小説に描いたから。さすがに一人の読書をそのまま意識の流れにはできなさそうなので、作者はミステリー・アリーナという犯人あての娯楽番組を仮構した。すなわち、テキストが流れて、それを見ながら十数名の回答者が適宜「犯人」を名指すのである。名指しという観察が、不確定な状況をある「解答」に固定するのである。

 ミステリーの問題は、嵐で孤立した館で起きた殺人事件。大学のミステリー研究会のOBOGが山荘に集まる。直前の嵐でただ一つの橋が流され、一人の女性が開かれた密室で殺された。一晩すぎると死体は消え、謎を解くべく活躍していた「探偵(役)」も殺される。記述は一人称一視点で行われ、複数の書き手が「ランダム」に登場する。テキストは嘘は書かれていないが、故意に記述を省略したりする。登場人物は性別を確定できない名前をもつものがいたり、完全な名を呼ばれないものがいたり、一切会話に加わらないものがいたり、年齢不詳のものがいたりする。この40年の間に開拓されてきた「叙述トリック」が網羅されているのだろう。そのために、とりあえずの登場人物は少数なのに、出てくる解答は15のバリエーション。同じ登場人物を犯人と解答しても、根拠や論理が違えば別解答とするというルールが適用されたため。
 それだけの解答がでても、たいていはその直後に間違っていたことがわかる。なるほど回答者の「解答」はディクスン・カー「九つの答」と同じようなミスディレクションを誘う注釈なのかと思った。カーの場合は小説に登場しない「作者」の注釈だったのだが、ここでは小説に登場するキャラクターの発言として現れる。
 小説は問題編とテレビスタジオの解答編が交互に現れる。ここで小説の中にひとつの壁があることがわかる。「解答」を出すことによって、壁が壊されるわけだ(それが不確定な状況を固定するアクションになるわけ)。ここがうまい設定。
 解答部分はミステリーの途中にある探偵たちによる整理と討論会のようなものと思わせながら、何事かが進行していることが暗示される。なるほど都筑道夫「三重露出」のような物か。
(登場人物が筒井康隆のドタバタにでてくるような連中をさらにデフォルメしたものばかり。会話もマンガのパターンを踏襲。こういうのはちょっとねえ。昭和の時代に清水義範がマンガの擬音をテキストにしたのを小説にしていたが、とうとう21世紀にはそうなったのだなあ、と嘆息。)