odd_hatchの読書ノート

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横溝正史「蝶々殺人事件」(角川文庫) 殺し方の複雑さに感心するより、容疑者は一人だけで、その一人が犯人である難しい課題をクリアしたことを寿ぎましょう。

 「蝶々殺人事件」1946年の探偵小説としての評価は同時代の坂口安吾推理小説について」につきている。青空文庫にあるので、よむべし。
坂口安吾 推理小説について
 最後のところにある「日本の探偵小説の欠点の一つは殺し方の複雑さを狙いすぎること」というのは、今でも有効であるかしら。最近のは知らないから判断できない。

「その怪事件は昭和十二年の秋に起こった。世界的に蝶々夫人として有名なソプラノ歌手の原さくら女史が何者かに扼殺され、その死体はコントラバスのケースに花弁とともに詰め込まれていた。原さくらは公演のため一行より一日早く大阪に来ていた。が、マネージャーの土屋恭三は旧友との再会に、女史の出迎えを忘れてしまっていた。狼狽した土屋がホテルに駆けつけたときには、すでに原さくらはどこかへ出かけて不在であった。楽譜に似せた暗号の意味するものは。そして、名私立探偵由利麟太郎の推理は……。――本邦を代表する名探偵金田一耕助のライバル、巨匠横溝正史が最初に生み出した探偵由利麟太郎の推理が冴えわたる名作「蝶々殺人事件」


 まいったなあ。角川文庫は金田一耕助に肩入れしているおかげで、こちらは手に入らないのか。それはいけない(2011年当時。2013年からはKINDLE版で読めます)。
 冒頭、空襲で焼け出された、もう若くない三ツ木記者が由利先生を訪れる。由利先生のいうには、敗戦後の時勢では計画的な犯罪がなくて自分の出番がない、犯人との知的なやり取りがないと慨嘆する。とはいえ、科学の不足で負けたこの国には科学的・合理的な読み物が必要というわけで、古い事件を持ち出すことになる。なるほど、横溝正史にとっては焼跡やバラック闇市などは「探偵小説」の舞台ではないというわけか。そこはたとえば角田喜久雄とか鮎川哲也なんかとは異なる視線を持っていたというわけだ(彼らはそういう被災地と復興途上の都市に新しい犯罪と人間を見出したのだ)。そうすると戦災の影響のない田舎か、戦前の都会を舞台にするしかない。そのような場所が横溝にとっての犯罪のユートピアだった。
 さて、1937年の東京と大阪が舞台。原さくら歌劇団というのがでてくる。西洋だと都市ごとにオペラ劇場があるので、オペラを上演する主体は劇場。でもそんな劇場のなかったこの国では、スター歌手を中心に人を集め、劇場を借りて巡業公演をしていた。1シーズンで解散し、別の演目のときにはまたエキストラを募集する。これは西洋のオペラが外国に出稼ぎにいくときのやり方。チェリストだったトスカニーニが指揮者への出世の糸口をつかんだのが、こういう旅回りオペラ団の南米興業のときだった(ゼッフィレッリ監督「トスカニーニ」という映画を参考に)。この仕組みは今でも「藤原歌劇団」とか多くのバレエ興行に残っている。この作品の書かれた時代にはもう浅草の歌劇は壊滅していたろうに(関東大震災で浅草の劇場の大半が閉鎖)、その余韻が反映しているわけだ。原さくら歌劇団の上演作品は「蝶々夫人」「椿姫」「フィガロの結婚」など。これに「カルメン」とオペレッタのいくつかを加えると戦前のオペラ公演の演目がほぼ網羅できる。戦前オペラの話は堀内敬三「音楽五十年史 上下」(講談社学術文庫)では触れられていないので、むしろCDの「浅草オペラ 華ひらく大正浪漫」の解説が詳しい。閑話休題

 原さくらという美声で気まぐれで癇癪持ちの歌手(このオペラ歌手は三浦環がモデルかな)が被害者。彼女は東京の興行がはねて、大阪に移動するとき単独行を選んだ。身代わりを立てて、身を隠した翌日、コントラバスのケースに詰め込まれた状態で発見される。歌劇団の関係者から、でたらめな楽譜を見てからおかしくなった、ということで、楽譜の暗号がでてくる。またその数年前に流行歌手が殺され(甘いテノールというから藤山一郎灰田勝彦か)、同じようなでたらめな楽譜が見つかった。
 案外早く、原さくらの殺害現場が見つかり、それは大阪市内のアパート。凶器は防空火災用の砂をつめた袋(昭和12年にはないよなあ。19年秋以降ではないか。それでも時代を感じさせるし、袋は浴衣をおろして作るというのも失われた風俗だな)。その一方、東京でも原さくらのアジト(死語)がみつかる。名は「清風荘」。松本泰のタイトルの拝借だな。こちらでも殺害の模様が見られる。というわけで、どこが殺人現場かわからなくなり、次の殺人事件が起きるわ、関係者の自殺が報じられるわといよいよ混乱してくる。そこに由利先生の慧眼が煌く。
 通常は、最初の死体移動トリックとか、第2のアリバイトリックなどに目を奪われるわけだが、実のところ、最大の仕掛けはべつにある。その仕掛けは、戦前のイギリス探偵小説にあるのだが、この国への紹介は占領終了後であるから、作家の創意とみていい。ともあれ、容疑者は一人だけで、その一人が犯人であるという、まことに単純にして、難しい課題をクリアしたのであった。そうしてみれば、後付だけど安吾の要望もふっと肩をすぼめてやりすごせばいいものでだった。


 併録の短編2つ。
蜘蛛と百合1933 ・・・ 君島百合絵という美女にはいささか奇妙なうわさがある。彼女に恋した男は次々と変死を遂げるのだ。それは彼女が20歳になる前に蜘蛛三なる男に誘拐され、3ヵ月後蜘蛛三の遺産を相続したときから始まる。友人をなくした三ツ木記者、彼女のことを調べ始めたが、恋に落ちてしまった。それをいさめる由利先生、どうしたものか。
薔薇と鬱金香1933 ・・・ 鬱金香はチューリップのこと。鬱金香の羹(なます)を若さの秘訣とする令嬢、彼女は三年前に夫を殺人で失っている。今はある資産家と結婚しているのだが、彼女の元に三年前の事件の犯人が現れた。彼は獄死したはずだのに。犯人は今の夫を告発し、江戸川乱歩「吸血鬼」冒頭と同じ決闘を挑む。その顛末は、さらに三年前の事件の真相は?
 横溝のモチーフの一つに、周囲の男を次々と破滅に追いやる絶世の美女というのがある。そのあまりの美貌とエロティックさで男を引き寄せる。とらわれた男は次々と破滅する。典型的なのは「女王蜂」「仮面舞踏会」の主人公であるだろうが、ここに収録された三篇のヒロインもその系譜のひとたち。もとはメリメ「カルメン」あたりに始まるような「運命の女(ファム・ファタール)」。

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