odd_hatchの読書ノート

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石野径一郎「ひめゆりの塔」(旺文社文庫) 本土決戦の時間稼ぎで行われた沖縄戦で、腐敗した日本軍は現地住民を殺し、死を命じる。

 昭和19年夏ごろから本土上陸阻止のために、周辺地域の軍配備を強化した。対象になったのは、フィリピン・台湾・沖縄。大本営などは沖縄上陸は当面あとと考えたので、沖縄駐留師団をフィリピンに移動する。本土からは、指揮官・参謀などの少数チームが派遣されただけで、兵員の配備、軍装の手配などは行われなかった。10月10日に最初の沖縄空襲。以来、飛行場整備が進められたが、兵員と物資不足のために、はかどらない。そのために沖縄の非戦闘員が召集され、無給で基地建設を行うことになった。ほとんどが農民であったので、収穫・種植えなどの農作業に遅延があり、翌年以降の飢餓が予想されたが、軍人は取り合わなかった。意見具申しても暴力が返るだけだった。人員リソースの不足のために、すでに15歳から60歳までの男性が徴集されていたが、そのうえに中学生と女子高生も組織化され軍の下についた。中学生は主に伝令として、女子高生は主に看護兵として働かされた。
 7月サイパン島、8月グアム島、翌年3月硫黄島陥落。4月から沖縄戦が始まる。防衛する日本軍は上陸を阻止せず、アメリカ軍を島内に迎える作戦をとる。兵力と物資の乏しい日本軍は、夜襲や特攻などの成果の乏しい作戦を取ることになる。それは米軍の進行をしばらく止めることは可能になったが、首里の防衛に失敗したころから敗走する。本島中西部に上陸したので、北部と南部は分断され、互いの情報が取れなくなる。南部戦線では敗走する日本軍と住民、および上記の中学生、女子学生などが夜陰にまぎれて、南部の高地に逃れていった。すでに食料をつき、畑のイモを掘って食べるくらいがせいぜいであった。敗走の途中、重症者には手りゅう弾や青酸カリなどが配られていた。それは動けて南部に逃れる人たちも同様。

 小説は6月の梅雨の時期に始まる。すでに攻防戦は終了し、掃討戦に移っていた。その敗走の様子を女子学生、通称「ゆめゆり部隊」の一員の視点で描く。そこで見えてくるのは、まずは日本軍とそのシステムの驚くべき腐敗と怠惰。民間人の持ち物を徴発し、隠れ家の洞窟から追い出す。負傷兵は放置。重症者には自殺を強要。
 兵站を顧慮していないために現地調達を余儀なくされていた軍隊は住民の財産を徴集する。その上にヒューマンリソースを勝手に使用し、さらなる困窮を住民に強いる。批判や嘆願には「きさまはそれでも日本人か」「戦争においては兵隊が優先される」式の抗弁で、暴力をふるう。そこにおいて悲しいのは、その種の権威的な言動をする軍人に追従する士官たちがいるが、その中には学徒出陣で召集された大学生もいたかもしれないこと。彼らの内面は「きけわだつみのこえ」などで悲痛さをきくことができるが、行動においては他の兵隊と変わりなかった。悲しいことにそれに追随する民間人(この本では、女学校の校長と看護婦長だ)もいるのだった。このときの軍の最高司令官は「人格高潔」といわれたらしいが、個人がそうであっても、組織はそうは動かないという実例。
 つぎには、死臭と膿臭ただよう戦場の悲惨さ。水と食料がない一方、長雨で疥癬が発症し、栄養不良で人々は疲弊する。流れ弾や機銃掃射、艦砲射撃でなくなる人もいたが、同じくらいに餓死、病死者もいたのだった。老人、幼児、産後の母、妊娠中の女性などが真っ先に倒れただろう(その種の記述がある)。
 最期には、戦闘の愚劣さがある。米軍は沖縄の人々の作った畑地を無視する(ヨーロッパ戦線の映画を見ると連合軍は小麦畑を迂回しているみたいだが、アジア戦線では田んぼや畑地をお構いなしに歩兵や戦車が通る)。あらゆる土地に無差別の爆撃をし、ゲリラ戦の恐怖のために火炎放射器を使用するなど。
 ラストシーンはたぶん6月23日。司令官と参謀の自決が伝えられ、ひみゆり部隊は解散。洞窟の中で、青酸カリが配られ、手りゅう弾のまわりに輪になる。たまたま主人公は、直前の米軍の攻撃を逃れることができた。硝煙のこもる洞窟から外に出、光に包まれる。希望の象徴なのだろう。

      

 でも、沖縄は解放されたわけではない。占領地となった。阿波根昌鴻「米軍と農民」(岩波新書)のような新たな苦痛と戦いがここから始まる。
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