odd_hatchの読書ノート

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大江健三郎「沖縄ノート」(岩波新書)

 沖縄の施政権返還が政治日程にはいっていたころの1969-70年にかけての連載。当時沖縄にいくには、パスポートとヴィザが必要。なので、行き来ができなく情報の乏しいところだった。そこで、作家は沖縄に行き、沖縄の人と会い、運動に参加し、歴史を紐解き、現地の文章を読む。その進行中の作業経過を報告する「ノート」

プロローグ 死者の怒りを共有することによって悼む 1969.01 ・・・ 1969年1月9日に38歳で事故死した沖縄返還運動の活動家の追悼。

日本が沖縄に属する 1969.06 ・・・ 作家が沖縄および沖縄の人との関係を持とうとするときの困難。沖縄および沖縄の人から告発、拒絶、優しさを感じ、「日本人とは何か、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」と自らに問う。
(マジョリティがマイノリティの差別や格差などに共感したり、連帯しようとするときに感じる気分とか感情。作家に特有なものではなく、多くの人が持つ気分とか感情。この気分や感情を「克服」してから運動に参加しようとすると、挫折が待っている。当時の気分を思うにはよいけど、「われらの内なる差別」を出発点にするのはよろしくないと思う。)

八重山民謡誌』69 1969.07 ・・・ 江戸時代に編まれた民謡誌を読みつつ、沖縄の現状(核兵器の持ち込み疑惑、放射性物質漏れ疑惑とその調査の強制的な中止、B52墜落事故、毒ガス漏出疑惑など)を見る。
(前章の「日本が沖縄に属する」というのは、アメリカ統治で日本国憲法の通用しない沖縄があることで、日本はアメリカの等値かにあるという認識。この権力は民衆にとって分厚い壁であり、侮辱と無責任をあらわにしている。)

多様性にむかって 1969.8-9 ・・・ 核武装による践祚抑止力批判。そのうえで沖縄に核を置くことを容認・推進する立場は、沖縄が殲滅されるべきもの、安い犠牲、捨石として把握している。それは15年戦争時のこの国の政策、戦略と同じ。本土の人間はこのことをはっきりと把握しようとしない。
(日本人は多様性を許容する民族と自賛されることもあるが、「多様性にたいして漠然たる嫌悪の感情が、あるいはそれを排除したいという、なかばは暗闇のうちなる衝動」を持つと指摘する。投書や街宣における沖縄への侮蔑や差別はひどいものだ。この指摘から45年たって、今でもそうだと答えるしかない。とりあえずの希望はアメリカも政府も核つきの返還を画策していたが、沖縄民衆の反対でできなくなったということ。)

内なる琉球処分 1969.10 ・・・ 日本中心の「中華思想」。その持ち主の典型としての福沢諭吉。「日本政府は琉球を取て自ら利するに非ず、琉球人民を救うの厚意なり」を実践した1872-79年の琉球処分。それに抗した謝花昇ら。
琉球処分は、沖縄を日本の県に取り込もうとする措置。沖縄の人々の抵抗が種々あったが、それを押しつぶして沖縄は日本になった。それはのちの日韓併合でやったことの前駆になる。)

苦が世(にがよ) 1969.11 ・・・ 沖縄返還のスケジュールが出てくるにつれて、「沖縄の本土化」が主張されるようになる。そこでは施政権と基地が切り離され、琉球/沖縄人が自分の運命を自分で決定できない境遇を継続させ、アメリカの核戦略に沖縄を巻き込ませる。
アメリカの軍事戦略の一環に沖縄を位置づけることは、敗戦後の直接統治の時代からあった。それに抗する沖縄の人々は多数いたが、それは無視された。沖縄を犠牲ヤギとしてアメリカに差し出すことで、この国の戦後がある。ここで指摘されている「本土の沖縄化」は実際に生じている事態。)

異議申立てを受けつつ 1970.01 ・・・ 1969年6月15日に行われた沖縄全軍労のストライキ普天間の基地労務者によるピケ。総括集会などのレポート。アメリカ軍がデモやピケに登場し、カービン銃が住民に突き付けられた。あわせて、プロローグの青年の思い出。
(沖縄は日本国憲法が通用しない土地であった。アメリカの占領軍の指令がより上位のほうであったから。そこでストライキをするということ、不正な法を拒否し、日本国憲法を使う運動が行われた。レポートによると、日本国憲法を印刷した冊子を配布する運動があり、厳しい弾圧にあったという。)

戦後世代の持続 1970.02 ・・・ 7-12歳に沖縄戦を体験した人々による創造と発見の試み。作家と同年齢の人々。
(それに対比するように「醜い日本人」が描かれる。東京の集会で殴りこんだり、器物を破損したり。あるいは国会議員が沖縄を侮辱したり。その姿は沖縄戦で住民から物資を収奪したり自殺を強要した日本軍の蛮行に重なる。このような「強権の尻馬にのって差別する者」は21世紀にもいる。)

日本の民衆意識 1970.03 ・・・ 大阪万博の空疎な開会式。そこで政府とアメリカは「沖縄問題は終わったこと」とする意思を示す。そしてひめゆりの経験を「若い娘が戦場で死ぬということは痛ましいこと」と一般化し、本土の責任をあいまいにする。そこにおいて沖縄の「大田昌秀氏は、《平凡だが、肝要なことは、われわれが過去の辛い経験に照らして国政参加の原理とその意味を十分に学びとり、血肉化したうえで、それを可能なかぎり現実の政治に生かしていく努力を秋み重ねることだとおもう》という地道で強靭な決意を表明する(P199)」。この民主主義を実行するという簡単で困難な道を示した。

「本土」は実在しない 1970.04 ・・・ 本土復帰のスケジュールが確定しつつあるころ、慶良間島で島民に集団自決を強要した本土の軍人がたんに「折になった」という理由で島に行こうとした。作家はアーレントのレポートしたアイヒマンの姿を重ね、「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺購と他者への購藩の試みを、たえずくりええしてきたことであろう(P210)」という。そして「罪をおかした人間の開きなおり、自己正当化、にせの被害者意識、それらのうえに、なお奇怪な恐怖をよびおこすものとして、およそ倫理的想像力に欠けた人間の、異様に倒錯した使命感がある(P212)」と指摘し、この元軍人のみならず本土の人は「この前の戦争中のいろいろな出来事や父親の行動と、まったくおなじことを、新世代の日本人が、真の罪責感はなしに、そのままくりかえしてしまいかねない様子に見える時、かれらからにせの罪責感を取除く手続きのみをお》)ない、逆にかれらの倫理的想像力における真の罪責惑の種子の自生をうながす努力をしないこと、それは大規模な国家犯罪へとむかうあやまちの構造を、あらためてひとつずつ穂みかさねていることではないのか(P214-5)」と問う。そして、自決を強要されアメリカの砲火にさらされた沖縄の老女が畑の中で民謡を歌い踊ったという伝承を聞き、そこに「、沖縄の民衆としての自己表現に、すぺての情念を燃やしている人間」を見る(美しい、しかし厳しい挿話だ)。沖縄の人に無言で突き付けられている(と思われる)「日本人とは何か、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」の問いを繰り返し問う。


 沖縄の人は日本を「本土」「内地」と呼び、そこに住む人と「大和人」と呼ぶ。そこには彼らの思いがあるのだが、重要なのは薩摩が琉球を植民地化したあと、明治政府による琉球処分が行われ、さまざまな圧政が沖縄に対して行われたこと。この本で読むだけでも、沖縄で行われたことはのちに朝鮮ほかの植民地でこの国が興した圧政、悪政の見本、原型になった。そのさいたるものが1944年から沖縄戦。ほかの戦場に比べ、圧倒的に多い民間人、市民、国民が殺された。資産や生産設備を破壊した後、内地や本土を保持する代償(というか犠牲ヤギ)として沖縄がアメリカに差し出され、最大時には本土や内地の基地面積よりも広い米軍基地が作られ、ベトナム戦争に関わった。ここからB52が出撃して北爆が行われたり、戦傷者の救護が行われ、米軍物資が輸出された。本文にあるように全軍労のストライキには米軍が出動し、カービン銃が突き付けられたりもした。返還後も、この国の政府と企業は収奪と搾取の対象としてきたし、安保法制の矛盾を押し付けてきた。
参考エントリー: 阿波根昌鴻「米軍と農民」(岩波新書)
 で、最後の章にあるように、「本土」や「内地」はそのことをしっかりと考えないで、笑みを浮かべながら沖縄を差別し、差別や格差の仕組みを変えないようにしてきた。沖縄の現状と日本が沖縄に押し付けていることに、自分を含めて多くの人は鈍感だった。ずっと未解決のまま放置してきた基地の返還や移転を巡って情報が流れるようになったとしても、まだ鈍感であったり異物を排除しようとしたり、押し付けを強要したりするのは残っている。
 この本は1970年前後の状況で、作家の考えの整理のための「ノート」なので、「沖縄」問題を勉強するには不足。岩波新書では補うためか、瀬長亀次郎「沖縄からの報告」、中野好夫/新崎盛暉「沖縄問題20年」「沖縄 70年前後」などを出していた。それももう古すぎるので、21世紀には別の本を使わないといけない。ここではタイトルの紹介のみ。ともあれ、沖縄と「本土」ないし「内地」との関係はあまりに知られていない(自分も知らない)ので、ちゃんと勉強しておかないと。そうしないと沖縄戦などをたんに「戦争の悲惨」さに薄めて理解することになりかねないので。
 このノートで示唆されることはたくさんあった。注目したところは上に引用しておいた。ただ注意するのは、作家の考えのスタートにおいている日本人とは何か、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」には深くとらわれないようにすること。ここを解決してから問題に向かおうとするといつまでも出発できないし、挫折しかねない。「われらの内なる差別」の摘出をすることにこだわると、何もできないし、内輪にこもることになるからほどほどに。
(この感想を書いたのは2015年9月。2016年夏以降の沖縄の状況は反映されていません。)