2015/03/27 野間宏「真空地帯」(新潮文庫)-1
2015/03/30 野間宏「真空地帯」(新潮文庫)-2
「暗い絵」「崩壊感覚」でみられた句読点のない長い文章、対象の執拗な描写、内面で噴き出す声、現在と過去のカットバック、生硬な思想を交わす会話、そういう「戦後文学」を特徴づける文体はここには影もない。短い文章をたたきつけるようにつなげる。京都弁のあたりのやわらかい(しかし心情をみすかされないような老獪な)会話になる。形容詞や副詞が一掃され、名詞と動詞だけで文章が書かれる。内面の声はまず誰も発しない(主人公格の木谷も曾田も)。いわば期せずしてハードボイルドの文体になっているのだ(センチメンタルな感情と詠嘆調の気分がないので、ずっとハード)。軍隊にある<システム>も強固さ、個人の抑圧、グループへの同調圧力、反知性主義などを描くにはそうするしかないという判断になるのか。それはたぶん大岡昇平や高杉一郎や……という兵隊経験者が軍隊の小説化するときに選んだ文体に似ているのではないかと思う。ヘミングウェイやオーウェルやマルローらの兵士を主人公にする戦争文学、ソルジェニツィンの囚人を主人公にする収容所文学、さまざまな戦場のルポルタージュが選び取った文体にも共通するではないかとおもう。およそ日常から離れた(しかし日常の延長線上にある)戦争とそれを遂行する組織は、頭を使った観念では捕らえきれないし、描きようがないし、観念が事実によって粉砕されるのであろう。
この国の軍隊を描いた小説は古い歴史があるはず。自分の読みは極めて少ないのだが、「真空地帯」に描かれるような内部への暴力が目につくようになり、兵隊にトラウマやPTSDになるほどのハラスメントとなるのは昭和5年以降なのではないかとおもう。すなわち、シベリア出兵を描いた黒島伝治「渦巻ける烏の群」あたりでは上官が部下を暴力的に扱うというのはかかれないのだ。おそらく軍隊内の暴力、初年兵いじめがはじまったのは治安維持法が施行され、15年戦争がはじまり、物資の不足が常態化し、インテリ学生が入隊するようになってからではないか。社会の側の抑圧の体制が強化されてから、それが軍隊内に持ちこまれ、物資不足とロジスティックス軽視が軍隊内の犯罪を誘発するようになる。それが軍隊内部の抑圧と暴力に結び付く。戦地にいって「敵」と遭遇し、兵士に暴力の行使が許されるようになると、自分に向けられていた暴力や抑圧が「敵地」の兵士や住民に向けられ、虐殺や強姦、強奪などのさまざまな犯罪行為に結び付いていった。平岡正明「日本人は中国でなにをしたか」(潮文庫)や森村誠一「悪魔の飽食」(カッパノベルス)あたりの受け売りなのだが。
そのような暴力や抑圧のしくみは、軍隊の中でうまれたわけでもないだろう。木谷の回想にあるように、戦前の奉公制度では主人が奉公人に暴力や抑圧をふるうことが容認されていた。主人という「家」の権力の持ち主は、そのシステムの内部では無限の権力を持っていて、奉公人や下女、書生などになんでもできた。そういう社会のしくみがあったから、この国の軍隊の不正や悪が醸造されていき、戦地で多大な暴力被害を起こしたことになる。そこには、この国のシステムの<反知性主義>があり、インテリをバカにし、合理的な思考をおろそかにする。インテリの側も保身のために、結局的に従属関係にはいる。大学出の初年兵が暴力から逃れるために古参兵に取り入ろうと追従するようになる。
小説の現在では、初年兵いじめ、外出許可をうけるために人事担当への追従、初年兵の行方不明、原因となった古参兵の営倉送り、野戦送りが決まっての動揺などが起こる。そこに、たくさんの兵士や軍曹、尉官あたりの挙動が描かれる。農村出、奉公人、工員、自営商人、サラリーマンなど出自の違いがあっても、兵隊暮らしの中で社会性や公共心、正義観などはスポイルされ、感情と思考をなくし自由の意味を喪失した「兵隊」に純化されていく。それをを恐ろしいとも、愚かしいとも、醜いとも、さまざまな感情が生まれてくるが、帰ってくるのはこれは他人ごとではない、俺たちの日常の延長戦上にあるできごとである、帝国陸海軍が崩壊したからといって、この国から暴力と抑圧のしくみが一掃されたわけではないということ。
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