odd_hatchの読書ノート

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大岡昇平「俘虜記」(新潮文庫)-3

2015/04/07 大岡昇平「俘虜記」(新潮文庫)-1
2015/04/08 大岡昇平「俘虜記」(新潮文庫)-2


 敗戦が決まり、山中などに潜伏していた日本軍兵士が俘虜になる。新旧の俘虜は微妙な違いを見せ、反目する。米軍は豊富な物資と給与を俘虜に与え、衣食住が提供された「パラダイス」を生きることになる。インテリ、知識人である「私」がみたのは「退廃」である。そのいっぽうで、俘虜たちの立ち居振る舞いは日本の市町村でもれなくみられた生活の復活でもある。強制されたパラダイスで発露された日本人の退廃や生活をどうみるか。


新しき伴虜と古き伴虜 ・・・ 15日の玉音放送後に新しい俘虜が入所する。新しい俘虜は先に入所している俘虜をののしり、古い俘虜は新しい俘虜に物資を平等に配分しない。いつ俘虜になったかで、彼らは精神的に共感しえない。古い俘虜は新しい俘虜が飢えているのを知って、彼らの所持品を配給された物資(盗んだり隠匿していたもの)と引き換えに取り上げる。あと、俘虜のごく少数派に民主主義や共産主義の勉強会をしているものがいた。
(これもこの国のシステムではよく見られること。たんに先に入所しているものが権利や権力を獲得して、たんに権利や権力をふるうために、あとから入所したものをいじめたり、差別したり。とくに卑しいものがいたとか、犯罪者ばかりだというわけではなく、小市民の生活をしているものが俘虜や軍人の立場になることで、そのような退廃を示すのだ。あとここは引用しておかなければ。

「部隊と行動を共にした従軍看護婦が、兵達を慰安した。一人の将校に独占されていた婦長が、進んでいい出したのだそうである。彼女達は職業的慰安婦ほどひどい条件ではないが、一日に一人ずつ兵を相手にすることを強制された。山中の士気の維持が口実であった。応じなければ食糧が与えられないのである。(P374)」

演芸大会 ・・・ 俘虜収容所の退廃の様子。退廃といっても、演芸大会に熱中し、芝居に流行歌をするくらい。女形がでてきて、俘虜(特に権力者)の間で取り合いになったとか、春画・春本を自作して回覧しあったとか。暇で暇でしかたなく、干し葡萄で作った密造酒で酔っぱらうくらいしか時間つぶしができないとなると、そういうものか。
(ここで「私」は収容所内で見聞きした、芝居、歌、浪曲、絵画、シナリオ、春本などを題材に芸術論を展開。その当時の下等な文化であり演芸から文化論を引き出すのは、この国の最初のサブカル論みたいに思えた。書かれて半世紀以上の時間がたつと、当時のこの国の演芸の貴重な証言という感じ。あと、劇団ができると暴力団みたいなのが、幅を利かすようになったというのが、なんともいやな、気持ち悪さになる。)

帰還 ・・・ 11月15日に帰国することになる。先に俘虜になったものから帰国するので、収容所の階層は崩れていく。彼らは支給された軍服ほかを持ち帰りたいと画策する。そこで集団の連隊は崩れ、個人の我欲があらわになる。多くの俘虜は偽名を使っていたが、現地の人による戦争犯罪の告発により、残ることになった俘虜もいた。「私」らが乗船する船は信濃丸。日露戦争で「敵艦見ゆ」と電報をうった古い船。1週間ほどの船旅の後、博多に入港。
(長い外遊から帰り、この国の姿をみるときに、さまざまな感情が湧くもので、誇りであったり安堵であったり。押川春浪海底軍艦」とか北杜夫「どくとるマンボウ航海記 」がそれぞれの感情の代表なのだが、1945年からしばらくの兵士たちの帰還では、ナショナリズムの感情が現れないのが特徴。これがそうだし、堀田善衛武田泰淳という人たちのものもそう。)

附西矢隊始末記 ・・・ 「私」の所属していた部隊の敗戦記。


 この戦争では、この国の人々のしくみや行動性向があらわになった。ここでも、軍隊内の暴力、理不尽な懲罰、限界において脱落した兵士を逡巡なく捨てる冷酷さ、限られたリソースの奪い合い(公平な分配は上官の個人的な裁量でしか行われない)、軍と行動を共にする一般市民への暴力や懲罰、看護婦を慰安婦に替える人権無視、占領地から徴発した従軍慰安婦の奴隷労働、占領地での徴発、過酷な警察、非協力的な占領地への報復などなどが証言される。それらの戦争行為がこの記録のそこかしこにたくさん埋まっている。よく口にされる「正義を実現するために、モラルが高く、市民に良心的につきあい、植民地下で暴虐にあえいでいた人々を解放し、民主化を支援した日本軍」は、まったく存在しなかった。そのような志を持った人々もいたかもしれないが、俘虜という立場で平等化されたときに、志を実行しようとする兵士・下士官はいなかった。
 表面では、俘虜ののんきな生活を描いているが、彼らが俘虜になった時の状況を話しても、俘虜になる前の行為は決して口にしない。せいぜい「命令されたから」「厳しい状況では生きるためには仕方ない」という自己正当化の安易ないいわけだけ。それは「私」においても同じだし、そのような「反省」の思索も数個上の上官くらいまでしか届かず、この国を覆った仕組みや行動性向を解析するには遠く及ばない。
(まあ、こんなところでおかしな話をすることになるかもしれないが、こと南洋においては、兵士は山中に放り出され、飢餓線上をさまよったために、彼らの戦闘行為や占領施策で生じた異国の人たちの死体を見る機会が少なったからかなあ、と思った。死体を見ないか、見ないふりをしているという点では、竹山道雄「ビルマの竪琴」の俘虜収容所と同じ。そこは、自国民が殺した異国の人たちの死体を見せられたドイツとは大きな違いになりそう。あるいは飢餓と強制労働で同朋が死ぬのを見ていたソ連の俘虜収容所の経験者とも違う。たとえば、高杉一郎「極光のかげに」岩波文庫
 戦争行為による責任をしっかりと取らないで、うやむやにしてきた(物資と金をたくさん持っていたアメリカが要求しなかったのに甘えたのか)。それが、敗戦後のこの国の政治や外交を制約してきたし、いまだにぎくしゃくさせている。おれは「あの戦争でこの国はひどいことをしてきた。それを認め、同じことを繰り返さない。」と声明を出すところから敗戦処理は始まると思うのだがなあ。
 20世紀からのさまざまな収容所の記録を読むとき、俘虜や囚人が収容所に感謝したのは、それこそアメリカ軍が日本兵を収容したいくつかのところでしかなかったのではないか。それは敗戦国が戦勝国に占領されたときにおいても同じではないか。大量の物資が収容所や敗戦国に投入され飢餓を逃れたことや、それまでの政治体制があまりにもひどいので民主化を歓迎したことや、ほかにもいろいろあるのだろうけど、この国ほどに占領軍に感謝したところはないだろうなあ。でも、この国の仕組みは変わったのかというとそうでもない。占領された後に、政治や行政の仕組みはいろいろ変わったけれども、組織の中身や運営の仕組みはそれほど変わらない。なるほど軍国主義時代ほど権威づくで横柄ではなくても、官僚的で情実が横行するのは同じ。というか、この俘虜収容所で大岡のみたダメな仕組みはそっくりそのまま戦後のこの国のあり方に似ている。この小説がカリカチュアであるかと思うほどに。というか、敗戦からの復興で作られる社会の仕組みを先取りしているかのよう。
 多くのできごとがインサイダーの小数権利者で決まり、多くは阿諛追従に走り、アウトサイダーに冷たく、責任のありかがわからないようになっていて、利便をインサイダーで分け合う。のちに、カレル・ヴァン・ウォルフレンが「日本/権力構造の謎」(ハヤカワ文庫)などで見た<システム>に該当するものはそれ。
 この記録を読むのは参考になった。しかし、書かれたことと、そのあとのできごとを比較しててげんなりした。