odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

小田実「「政治」の原理、「運動」の論理」(講談社文庫) 1967~70年の文章を収録。「『物』の思想、『人間』の思想」の理論を現場で試すフィールドワーク、ルポルタージュ。

 ここには1967-70年の文章を収録。政治、運動、文学の3つの章に分かれていて、「『物』の思想、『人間』の思想」の理論を現場で試すフィールドワーク、ルポルタージュの趣き。こちらでは文章に余裕が出てきて、具体に即して書いているので読みやすい。

I 政治 ・・・ 「原理としての民主主義の復権」が重要な論文。そこを中心に気になるところを箇条書きで。
・制度として社会的に定着した民主主義の原理がどれだけ一人の個人にとって実現されたかが問題。
・自由には政治的と市民的の2種類。
・「人民の」「人民による」「人民のための」政治というスローガンでは、戦後この国では「人民のための」政治が行われてきていた。それだけでは不十分。「人民のための」政治を行うために、国家の権力が増大している。それが民主主義の原理を形骸している。「人民による」という市民の参加や運動で政治を変えていくことが必要。議会型民主主義といっしょに、デモなどの直接民主主義も必要。
・民主主義は、人間の尊厳(ディグニティ)を尊重し、人権を確立するもの。
・投票をするとき、人に対して賛否を表明するが、さまざまな政治判断において自分の考えと一致する候補者はいない。なので、政策ごとの投票、国民投票、議員の適格資格の厳密化を実現したい
II 運動 ・・・ ここでも同様にきになるところを箇条書きで。
・運動においては、「身に染みること」と「身銭を切ること」が大切。ベトナムを遠い地で無関係と思うのではなく、この国の基地や支援の在り方を見て、ベトナムで死ぬ人々に「身に染む」感覚を持とう。そして「身銭を切」って動こう。
・「どっちもどっち」「これよりあっちが重要」というやらないいいわけをするのではなく、現場に入ってみよう。まずは、だれでも参加できるデモから。
・これまでの運動は労働組合や党などの組織やコミュニティが上から指令し、さまざまな課題をひとかかえに運動に持ち込んできた。それでは、人々の多様さを運動は掬いきれない。だから、運動はワンイシューで、代表を持たないグループで、ミッションを達成したら解散。そんな流動的なあり方がよい。
・「小田実がべ平連ではなく、おれがべ平連だ」。ある高校生の言葉。
III 文学 ・・・ 「99匹と1匹」がいたとき、文学がとりあげるのは1匹のほう。という議論があるが、「私」はどちらも取り上げる。福沢諭吉三木清谷崎潤一郎野間宏などの文章について。


 これを読むと、ベ平連のような市民運動参加者や政党とは距離を取るような人々の運動、デモですら強い圧迫と暴力をうけていたことがわかる。当時の学生運動のスタイルであるヘルメットをかぶらず、普段着や背広で路上を歩く人々に、完全武装の機動隊がデモの両脇を圧迫し、時にリーダーと目される人を逮捕する。そういうことが1960-70年代には日常的に行われていた。そのうえときに様々な死者をだしていた。抗議の自殺、デモの現場での「事故死」、被害のただなかにあっての自然死。路上の激しい規制に暴力、さまざまな死者。こういったできごとが昭和までの社会運動、路上の反対運動に起きていた。その暴力を誘発していったのは、権力のまったんにある「名無し(であると主張している)」たち。彼らが<システム>の意をくんで(命令されたやるのではない、上の意図を慮って)勝手に権力を使ったことにある。
 1960-70年代の社会運動(とくに三里塚闘争)での対応を反省したのか、メディアに掲載されるような強大な権力や暴力を使うことはなくなってきているが(「強制代執行」が使われなくなった)、少人数の路上の運動ではまだまだ横暴なふるまいがめだつ。
 運動の側もそれに対応してきていて、権力や暴力に「実力粉砕」みたいなことをやらずに、社会に喚起しつつ、実効力のある抵抗をするようになっている。21世紀のアジアで起きている路上の運動が影響しているのもあるし、経験を積んだ人たちがリードしてみんなが理解しているのもある。大きな変化で好ましい。(いまだに警察などの国家権力とぶつかることを目的にする連中はいってよし!)。
 というような駄論はおいておくとして、重要なのは現場に身を置くこと。中に入って何らかの意思表示をするのは困難だし、その決意を持てと煽動する気もない。そこまでせずとも、遠巻きで何が起きているかを見ること、どのような声が叫ばれているかを聞くこと、人々の体温や体臭を感じること、汗をながし追いかけてみること。テキストやモニター越しの映像ではわからないことが、いっぺんにわかる体験をすること。「どっちもどっち」「相対主義で喧嘩両成敗」を唱えて、公正や公平の立ち場にあろうとするのが、間違いであるのが一発でわかると思う。デモや抗議の現場に行きましょう。