odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

日高六郎「1960年5月19日」(岩波新書) タイトルの日付は、衆議院で安保条約締結が採決された日。当時の人々の共感を呼んだのは、主婦や高齢婦人、高校生らの運動。

 タイトルの日付は、衆議院で安保条約締結が採決された日。それまでは議会内の小委員会で審議が行われていた。社会党議員の質問に政府はまともに答えられない場面があった。議事の休憩中に、突然審議終了・採決などの議案が自民党から出される。議事録も取れない混乱のなか、採択されたことになる。野党議員は抗議のために委員会および本院内座り込みを開始。午後10時半に警官隊が突入し(国会開設以来初めて)、座り込む議員を排除。議会内は混乱のきわみ。議員や秘書に囲まれた清瀬議長が議長席に到着。怒号で何も聞こえない中、マイクを持って何かをしゃべる。数分後、自民党議員が突如万歳を叫びだし、議長が退出。という具合の「強行採決」が行われた。これは1960-70年代前半までの国会審議で日常茶飯事になった。21世紀になって、他国で国会が混乱した状況をよく見ることがあるが、そのはるかな前駆はこの国なんだよな。
 採決の様子が撮影されている。3:17から。
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 さて、「安保反対」ではなかなか動員できなかった運動に、この日の出来事が知られることによって「議会政治を守れ」と「岸を倒せ」のスローガンが加わる。これから自然承認まで(そのしばらくあとまで)、さまざまな都市でデモが起こり、国会周辺には10万人規模の抗議者が集まり、「安保反対」の請願が集められ(最終的には1700万通だとか)、ストライキが組織された。その間、国会の審議は完全に停止。政府からの説明は一切なし。6月19日の自然承認までの期限があるので、安保支持者も反対者も非常な緊張感をもって、事態にかかわっていた。
 このときにめだったのが、全国学自治会連合、通称「全学連」。それまで共産党の指示下にあったが、六全協あたりから運動方針の違いが目立ち、前年ころに共産党指揮から独立する。そしてフランスデモや請願デモでは安保粉砕を貫徹できないとして、「肉体表現」を行う。羽田空港ターミナル突入、国会突入、首相官邸突入、国鉄ストにある品川駅行内で独自集会などなど。これらの運動は警察と右翼の暴力を呼び、6月15日の国会前デモで、一人の女子大生の死亡事故を起こすことになる。「ゼンガクレン」の名前はそのまま海外のメディアで報道されたというから、彼らの行動は突出していた。
 安保反対運動は1958年ころから組織されていたが、1960年4月頃から全国に展開し、参加者が激増する。6月19日の自然承認のあと、運動は退潮した。

 この本は1960年10月に出版された。まとめとしては極めて早い時期に書かれたもの。執筆者には編者のほか、藤田省三鶴見俊輔鶴見良行などがいる。「全学連」と共産党などのレーニン主義者の評価が自分よりやさしくて、好意的な改善を望むというもの。(ほぼ同時期に出た記録には信夫清三郎「安保闘争史」世界書院がある。1日ごとの動きを丹念に追った大著。入手は困難。)

 50年を経て、これらの本を読み返すとき、以下のような感想を持つ。
1.問題の責任は政府、とくに岸信介にある。議会で多数であることから「強行採決」という暴力で議会制度を破壊する。その前後で、自ら立案した政策の説明責任を放棄し、反対を暴力で粉砕する。強行採決当日から自然承認まで、自民党は「秘書」と称した右翼などを国会内にいれて議員に暴力をふるわせたし、右翼がデモに暴力をふるうのを黙認していたからね。議会と院内で暴力を使ったのは政府と自民党。路上では上の説明にあるように「ゼンガクレン」の暴力が目立つが、その前の運動(砂川とか警職法とか)でデモを警備する警官が先に暴力をふるったのだよ。このような権威主義的なふるまい、暴力を政治と行政に使わせる横暴さ、国民の多数の抗議を無視する無責任さ。こいつらはひどい。
 そのうえで、国会を30万人が包囲しながらも、責任を放棄し続けたこと。1989年のプラハやベルリンやブカレストで10万人の群衆の抗議デモにあった東欧諸国の大統領たちは即座に辞任して改革要求に応えたものだが。この国(と東アジア諸国)の為政者の開き直りと横暴は彼らのモラルの退廃と民主主義の無知を露呈している。
 この本には、当時の衆議院議員の中で賛成したと思われる議員を推定している(なにしろ誰が現場にいたのかわからない、挙手や投票など行われていないので)。それをみると、このあと30年間、賛成した議員から首相が選ばれていた(例外は1970年代半ばの三木武夫くらい)。
2.反対運動を主導したのは、総評など労働組合が作った「国民会議」。社会党共産党はオブザーバーで参加。運動の方針と動員はおもに「国民会議」が行った。彼らの戦術は、動員をかけたデモ、集会、ストライキなど。労働運動や左翼運動の常套的な方法。ただ、彼らに意外だったのは組合などに組織されていない個人が参加するようになったこと。知識人・文化人・自営業者・中小企業の労働者・主婦・老人・高校生など。彼らを受け入れたり、彼らの創意工夫をくみ上げる仕組みを持たなかった。映画「日本の夜と霧」で、マルクス主義を研究している教授が「前衛は大衆に乗り越えられた」と述懐しているが、それはここらの事情を指している。
3.メディアと公務員の保守性が目立つ。ありていにいえば、運動の昂揚期には彼らは運動をあおるようにし、絶頂期に彼らの主張を「大衆」や抗議者が乗り越えそうになると手のひらを反す。それは6月15日の国会突入の直後の「七社共同声明」。それまで反対運動に好意的、ないし反対の論陣を張っていた新聞七社が「議会制度を守れ(大衆や抗議者の暴力は許さない)」と梯子を外した。国会の暴力と民主主義の無視はこの宣言に盛られなかった。同じく、中等教育教員、大学教授なども保守的になる。文部省からの指示(生徒や学生をデモに生かすな)の通りに、参加者を抑圧する側にまわる。もちろんその他の行政の公務員はまず動かないわけだが。
4.「全学連」と当時のレーニン主義者たちは振り返ると運動のじゃまであった。彼らが運動のビジョンとミッションを「内乱を革命に転化」に持っていたので、国民会議などの「安保粉砕」「岸を倒せ」のスローガンに共感する人々とは相いれない。そのほかにもいろいろ。そんな具合で、彼らがレーニン主義に忠実であろうとするほど、運動を分裂させ、警察との衝突が目的になってしまう。
5.この本に紹介されたさまざまな運動で最も創意工夫があるように思え、当時の人々の共感を呼んだのは、主婦や高齢婦人、高校生らのものであった。既存のやり方やシステムを知らないせいか、とてもみずみずしいし、すがすがしい。この本では深く取り上げられていないこの人々の運動がもっとも「可能性」をもっている。

 自分はこの本を読んだのは35年前。教科書には書かれていないし、大人や先輩は語らなかったのでとても驚いて、感動した。しかし長年を経て再読すると、この60年安保の運動は1989年の東欧革命や2000年ころからの「色の革命」などと比較できるようになる。あるいは2013年から起きたこの国の反ヘイトや反ファシズムの運動とも比較ができる。そうすると、今でも政府と公務員はあいかわらず議会主義無視・反民主主義・横暴・無責任であることに憤るし、古いシステムにのって抗議するものも上記のような限界や誤りが目につく。そうすると、自分の希望は、これらの既存のシステムや歴史を知らない若い人たちの側にある。彼らのメンタリティや方法は、この本に登場する主婦や高齢夫人、高校生らにとても似ている。
 (以上を書いたのは2014年7月。認識がのんきですが、そのままにします。)


 2015年の大学生による国会前抗議行動を1960年と比較してみよう。
「2015.06.12 戦争立法に反対する国会前抗議行動 (SEALDs)」
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 2015年6月12日の国会前抗議行動の締めの言葉。

 この倫理と論理は、昭和の学生運動に欠けていたもの。それを歴史を継承していない21世紀の学生はやすやすとつくりだしている。