odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

小中陽太郎「私の中のベトナム戦争」(サンケイ新聞社) 「中の人」による「ベトナムに平和を!市民連合」通称べ平連の活動の記録。

 「ベトナムに平和を!市民連合」通称べ平連の活動の記録。1970年当時にはずいぶん資料があったと思うが、1980年代初頭においてはこれと三一新書「べ平連」くらい。
 ちなみに、自分のもっている一冊の見返しには、ある政治家にあてた著者献辞が書いてある。それがどういう経緯で古本屋に流れて行ったのか。

 さて、自分は著者をこの本でしか知らない。のちに大学教授を勤めたようだが、ここに書かれている自画像はつぎのようになる。TV局に勤めていて、ベトナム戦争に関するシンポジウム生中継のディレクターをしている際、司会の発言を受けてTV局上層部が放送停止した。それに抗議したか、そのためによるかでTV局を退社。結婚して2児の父親。野坂昭如の紹介で雑誌にコラム連載を開始。その後、ルポその他の原稿依頼が入るようになって、フリージャーナリストとして自立できるようになる。同時に、小田実たちと知り合い、彼が提唱した「ベトナムに平和を!市民連合」の世話人というか事務局というかスポークスマンの一人として、1965年の最初のデモに参加し、1973年の最終デモまで活動を共にした。この期間は著者の30代にあたる。
 「ベトナムに平和を!市民連合」の面白さは指導者とか綱領とか上下部署を持たない。勝手に名乗って構わない。したがって、全国各地に○○べ平連ができた。三一新書「べ平連」にはそのリストが載っている。本部というか小田実たちのやったことは、毎月1回定時デモを行うというものくらいで、あとは参加者が自発的にアイデアを出して、それを実行していくというやり方をした。たとえば、アメリカの雑誌や新聞に反戦広告をだすとか(金さえ積めばどんな広告もOKというのだから、アメリカの新聞社の度量はひろい)、世界の反戦運動家を招いたり国際会議に出かけたりとか、在日米軍基地や寄港中の艦隊から脱走した兵士を別の国に脱出させる手伝いをするとか、雑誌をだすとか、いろいろ。地方のべ平連は「中央」の指導に関係なく、自分で考えて、主導していろいろやった。労働組合とか全学連の画一的な運動と比べると、アイデアが斬新で、主催者も参加者も楽しめるというのが特徴かな。もちろんべ平連のデモといえども、機動隊の規制を受けることは必定で、ときには吉川勇一のような名義上の代表人が逮捕されることもあった。
(まあ昔語りをすると、べ平連がなくなった後でも1980年代なかばまでは、デモに参加するということはある種の覚悟というか金玉が縮みそうな気分になるのだよな。はるかに体格がよく、格闘訓練を積み、防護の装備を付けた若者が横にいるとか、デモの参加者の顔写真を公安が勝手にとるとか、不愉快な目に合うものだったよ。そのような覚悟や気合いなしで参加できるデモをつくりだした21世紀の10年代の若者はすごい。ファッショナブルでかっこいいのが素晴らしい)。
 著者はフリーのジャーナリストで、30代の大人。というわけで、組織の提唱者であるような小田実吉川勇一その他と近しく、彼らの側から見た記録になっている。事務局には10代後半から20代前半くらいの若者もいて、彼らの新鮮さと敏捷さには敬意をもっても、猪突猛進さと思慮の浅さと思い詰めには時として衝突がくる。まあ確かに若い者にとっては、人が意識を変えれば状況が変わる、状況が自分たちの都合の良いように変わるにはそれほど時間がかからない、というのは暗黙の前提だろうから。なんといっても、若者には未来は無尽蔵にあっても、その未来が到来するのがいつかはよくわからなくて、自分の希望でもって到来するスケジュールをいかようにでも設定できると思ってしまう。それが「権力」「体制」のびくともしなさなどで、思うとおりにならないとなると、ポキっと折れてしまうのだ。そういう経験をしてきた自分の身からすると、点描される全共闘の性急さとか、疲労した若者たちのニヒリズムとかは、危なっかしくみえてしようがない。
 すごく粗い議論であることを認識したうえで、暴論になりそうな話をすると、組織や運動は一度作るとやめ時がわからなくなる。まあ参加者がいなくなって自然消滅というのがほとんどだと思うが、ときに運動がいきなり巨大になって、組織論とか運動方針論とかの議論に消耗することがあったり、対象にしている問題がほぼ解決しても存続しているとか(そして神秘主義的な思想を取り込んでカルト化するとか)。なので、手弁当の組織、運動であったら、ここまでやるとかここまでいったら解散するとかの達成目標と解散基準を用意しておいたほうがよいのでは、と思った。一人になっても戦うぞ、というのはヒロイックで悲壮で、信念の人、孤高の人というイメージを持ちそうなのだが、社会の要請に応えていないとか、社会の満足を満たすことができていないとかそういう検証や反省の仕組みをもっていないということになる。その点「べ平連」はいい具合に完了したケーススタディになる。逆なのは新左翼の諸党派ですな。

<参考>
1965/8/14、べ平連が主催して東京12チャンネルが徹夜中継した「8.15記念徹夜ティーチ・イン」の様子。参加者が豪華。