odd_hatchの読書ノート

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ロス・マクドナルド「ファーガスン事件」(ハヤカワ文庫)

 1960年初出の長編第14作にはリュー・アーチャーが登場しない。かわりに、ウィリアム・ガナースンという弁護士が登場。父がペンシルヴァニア出身、朝鮮戦争に出兵して帰国後弁護士資格を取得。ロサンゼルスの売れない弁護士。見た目や性格はアーチャーと変わりないみたい。ただ、ガナースンは妻帯していて、第一子が生まれようとしている。なので、脅迫には心が揺るがされる。

 強盗事件の犯人一味と目された看護婦の弁護をすることになる。彼女の話を聞くと、彼女の持っている時計とかなにかは盗品ということだが、別れた恋人からもらったものだった。恋人ラリー・ゲインズはどうも身持ちの良くない男。高級クラブで水泳監視員をしているが、元役者の腕で若い女をつぎつぎたぶらかしているらしい。そのひとりに、映画女優ホリー・メイがいた。彼女は3年前にカナダの石油王ファーガスンと結婚していた。ファーガスンに会うと、妻が誘拐されて20万ドルを要求されたという。警察沙汰にしたくないファーガスンは、誘拐犯のいうまま金を支払ったが、その途上でゲインズとホリーが同じ車に乗っているをの目撃。ファーガスンは50代半ばの粗野で権柄付くな男。農地から石油が噴出して大金を得たが、それをどうするのかちっともわからず、品位がどんどん落ちていて、老化におびえているのだった。
 一方、盗品を販売している古物商が殺され、その元店員も殺され、その妻も殺される。彼らの死因は見かけとうらはらに、窒息死(頭を殴られたとか、睡眠薬を大量に飲んだとか他の原因があるにもかかわらず)だった。しかも発見されたあとに、窒息したらしい。この奇妙な事態があるが、なにしろ金持ちでも有名人でもないので、だれも注目しない。それどころか事件の関係者は、これらの事件の捜査をしているスペイン系の警官を疑うくらい。
 タイトル「ファーガスン事件 The Ferguson Affair」は、ファーガスン家に起きた事件と、ファーガスンのもたらした事件という二つの意味を持っている。すなわち、現在進行中のいくつかの殺人事件や誘拐事件は、そのことにファーガスンの過去が影響していると思しい。急に大金を得て、使い道のわからない若造が若い女をたぶらかし、捨てるという25年前の出来事があった。それはファーガスンの心を痛めつけ叩きのめし、ますます彼の頑迷さを増す結果になったのだった。弁護士ガナースンのやったことは、看護婦やこの富豪の窮地を救う弁護活動(というかほとんど私立探偵なのだが)、とは別にファーガスンに憑いている過去を明るみに出して直視するようにすること。それを受け入れるのはファーガスンには耐え難いことではあったが、事件が進展するにつれて、受け入れ始めるようになる。
 そのような過去のしがらみは、ホリーにもあって、ロサンゼルスから自動車で数時間離れた寒村に住む家族は解体している。すなわち、母はかつて男に捨てられ女優への道を断念し、再婚した夫とはうまくいかず、連れ子と再婚後の子供らの中もよくない。今ではほぼ妄想と幻想の世界の中に生きている。ホリーはそこから脱出しようとしていたのだった。
 そして、事件の真相は極めて後味が悪い。父や母の世代は過去の囚われで破滅や幻滅を経験することになり、貧困や憎悪の連鎖から脱出しようとしたその子供たちも思惑通りにいかずに失敗する。その中では、唯一過去に向き合えたファーガスンだけがおのれをボロボロにしながらも希望を持つ。何しろ、彼はオイディプス王と同じく過去が現在に復讐し、己を断罪せねばならなくなったからである。この試練はファーガスンに自己変容を強いるものではあったが、生きることの意味は得たのであった。
 これがさらに後期の「別れの顔」「ドルの向こう側」あたりになると、事件の中心にいる「父」はこのような自己変容を経てからの平穏は訪れないのである。それをするには、己の手を汚しすぎているし、あるいは年を取りすぎている。そこではアーチャーも真実を告げる以上の寄り添いはできない。そのような後期で繰り返される主題の最初のテーマをこの小説で得たということになるのか。これまではギャング、不良グループ、チンピラなどの事件であったのが、平穏で仲の良い家族に起きる事件に代わっていく。作者の転換を示した重要作。

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