odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

レイモンド・チャンドラー「湖中の女」(ハヤカワ文庫)

 フィリップ・マーロウは化粧品会社社長キングズリーの依頼で一か月前に疾走した妻クリスタルの行くを探していた。ここでも中年の男が若い奔放な妻を満足させることができないと言うのが、最初の問題。妻は山間にある別荘に住んでいて、情夫を囲っていたり、時折訪れる男を誘っていた。で、そのひとりである管理人ビルの話を聞く。この男は右足が不自由。妻がいたが、クリスタルとの情事を知り、家出していた。湖にでると、桟橋近くの水の底に人間の腕を見つける。ビルの妻ミュリエルだった。奇妙なことにミリュエルは変名で、クリスタルを探していたという。マーロウが二回目の話を聞くために、情夫クリス・レイバリーを訪れると、バスで射殺されていた。残された拳銃はクリスタルのもの。

 1943年発表で、戦争は膠着状態。ロサンジェルスの陽光あふれるなかではあるが、登場人物はいずれも憂鬱と倦怠にとらわれている。それは点描される戦争状況(アメリカ本土であると、戦争は遠い遠いところのできごと。せいぜい防空壕掘り、基地周辺の警備兵、徴兵のうわさくらい)だけではない。ここに登場するだれもが、現在の状況に閉塞感をもっていて、脱出したいと願いながらそうできないから。もっとも自由な選択が可能な化粧品会社社長ですら、秘書と結婚したいと願いながらも、しがらみは彼の行動を拘束しているのだし。
 レイバリーの家のとなりには、やくざ医師がいた。麻薬中毒患者にモルヒネを与えて、金をむしっていたのだ。その妻は1年前に自殺していて、そのころからレイバリーの羽振りが良くなっている。ミリュエルはかつて看護婦で、やくざ医師他の男との家計があったらしい。キングズリーのもとにクリスタルから電話がかかり、金をくれ、そのまま街をでるからという。マーロウが代理で会いに行ったが、待ち伏せただれか大男にてひどく殴られ気を失う。そのあいだに、ミリュエルは殺されてしまった。しかも殺人現場にいつもいるということで、警官に嫌がらせを受けもする。金よりもプロ意識でか、マーロウは事件の結末まで明らかにしようとする。 
 よい作品。「大いなる眠り」や「プレイバック」にあったストーリーの破綻がなく、仕掛けもしっかりとしたものだったし。もとが「レイディ・イン・ザ・レイク」という短編ひとつというのが功を奏したのだろうな。「さらば愛しき女よ」みたいに二つの短編をくっつけたのは、ストーリーがごちゃごちゃしてしまうのだ。そういう心配がないので、この人のナルシズムやセンチメンタリズムに陥る直前のしっとりした文体を楽しむことにしよう。
 ヴァン・ダインやクィーン、クリスティのミステリは新聞の1面あるいは3面トップを飾るような「大事件」。というのも、被害者はブルジョワやインテリ、舞台はハイソサエティな場所であって、そこにからむ遺産や事業の規模は大きい。しかし、チャンドラーやロス・マクドナルドのハードボイルドは、3面の埋め草記事になるような事件。ブルジョワが出てきても、せいぜい町の名士というところ。関係者には低所得者や貧困者が多い。シスコやロスにいても探偵がうろつくのは、裏町や避暑地で、高級ホテルもレストランもほとんど関係しない。これは新しい「都市」の見方なのだな。
 もうひとつ。探偵に捜査を依頼するものは、現代の「オイディプス」になる。なにか不吉なこと・良くないことが彼には起きていて、その原因を依頼者は自分で知ることができない。探偵を雇って、代わりに捜査させる。探偵は、オイディプスに仕えるもののように、情報を報告する。そして、依頼者はついには自分に降りかかった悲劇に直面することになる。
 ただ、どこかで誰かが書いていたけど(旧訳「ロング・グッドバイ」の解説だった)、チャンドラーの登場人物は「闘わない」という。なるほど、少し言葉を変えれば、事態を変化させるための行動をしないで、他人まかせにするか、ひきこもるか、ということ。会社社長のキングズリーと別荘の管理人ビルが典型。いずれも女房が消えて、酒におぼれる。悲劇の直面から避けるというのは、たぶんほかの作品にも見られる傾向。