odd_hatchの読書ノート

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ロス・マクドナルド「別れの顔」(ハヤカワ文庫)

 「ロスアンジェルスに住む元警察官の私立探偵リュウ・アーチャーはアイリーンという裕福な中年婦人から依頼を受ける。空き巣に入られ、彼女の大切にしていた黄金の小箱が盗まれたというのだ。アイリーンは息子の大学生ニックが盗ったのではないかと怖れていた。彼女の夫ジョンは息子のニックと折り合いが悪いのだ。アーチャーがニックのアパートを訪ねると、婚約者のベティが出てきてニックが逃亡したことを告げる。最近ニックは母親のような年増女ジーンの色気に惑わされていたという。ジーンの元を訪ねたアーチャーはそこで盗まれた小箱を発見する。やはりニックが盗んでジーンに与えたらしかった。やがて、ジーンの使っていた私立探偵が射殺された。そしてアーチャーとベティの前に現われたのは拳銃を持って錯乱するニックだった。さらに事件の裏を探るアーチャーはニックとベティの一家の意外な過去に遡っていく。」

 ニックはチャーマーズ家(金持ち)、ベティはトラットウェル家(弁護士)。この2つの家を中心にして、15年前に破産した銀行の頭取、その出納係りなどの家庭がかかわっている。現在起きていることは、ニックの失踪、使い走りの私立探偵の殺人であるが、そこから埋葬されていた過去が露出される。大きな事件は、銀行預金の横領、すぐ翌日のトラットウェル家の夫人の殺人、出納係の失踪、児童のニックが犯したかもしれない殺人、ニックの出生にかかわる謎など。過去にかかわるのは、家の中心である中年の夫妻だけでなく、その両親も、子供も。あるときの過ちが親子三代にわたるトラウマとなっている。彼らは過去を懸命に埋葬、消去しようとしてきたが、ニックという異人の出現によって露呈し、現在に断罪されることになる。埋葬と書いたように、主人公たちは生きながら死んでいる。彼らは変化をのぞまないし、他人が介入することを拒否している。そのような家族や個人のあり方は特異なものだと思うが、そこに露呈されている孤独はわれわれも共有できる。
 アーチャーはただ一人の生きている側の存在として、事件に巻き込まれる。そのとき、誰かに感情移入することは極力避ける。なにしろ彼の会う人は嘘をつくか、真実を隠すから。アーチャーのコミュニケーションの方法は質問をすること。相手の返事にまた質問を返すこと。そして自分は相手のために何ができるかを問うこと。アーチャー自身は事件に利害を持っていないので、このようなコミュニケーションになる。それはカウンセリングやコーチングの方法に近いのだろう。質問すること(それによる共感があることを示すこと)によって、相手から解決を引き出していく。アーチャーにとって事件は現場にあるのではなくて、相手の心の内にあるのだ。彼が「解決」するのは事件の犯人を引き出すことではなくて、事件の関係者の憑き物を落とすことなのだろう。あいにく、彼は京極なんとかよりもドライなので、憑き物落としによる落胆や孤独までに手を差し伸べることはない。ただ横に寄り添うだけ。
 1969年初出。

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