odd_hatchの読書ノート

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アントニイ・バージェス「1985年」(サンリオSF文庫)-3 本が捨てられ思考しなくなった人々の社会で、知識を求める「たったひとりの反乱」。

2015/12/07 アントニイ・バージェス「1985年」(サンリオSF文庫)-1
2015/12/08 アントニイ・バージェス「1985年」(サンリオSF文庫)-2

 かんたんにストーリーをまとめると、歴史教師のベブ・ジョーンズは組合運動史ばかりを教える公教育にすっかり失望し、組合の指令で菓子職人に転職していた。妻と知的障害を持つ娘がいる。妻が具合を悪くして入院しているときに、病院で火災が発生。現地に到着した消防隊はストライキを理由に消火活動をしない。ベブの目の前で妻ヘレンは焼死。消防の責任を問おうとするが、組合は業務の責任よりも労働者の権利が優先すると説明して(あわせて担当者レベルでは組合を告発できない、そんなことをすると担当者も失職するから)、ベブの抗議をはぐらかす。ベブは怒り心頭に発し、「たった一人の反乱@丸谷才一」をタックランド(小説中のイギリス国家の名称)に始める。
 彼の武器は怒りだけなので、社会や組合からの制圧に抵抗できない。わずかな現金はすぐに底をつき、アウトサイダー(愚連隊とか浮浪者)の群れに入るも、スーパーで万引きしたところを逮捕される。組合員でないので、保釈されず、更生施設に収容される。労働組合への忠誠を示す書類にサインすることを拒む。そこで知り合った人の紹介で「自由英国人連合」なる組織に加わり、ストライキを襲撃したりする。その頃、石油で財を成したアラブ資本がイギリスの企業やビジネスを買収している(イラン革命前なので、アラブ諸国はいずれも王政)。知的障害を持つ娘はアラブの王族の妾になって出国。独り身になったベブは、ワーキングクラスの起こした反アラブの暴動や略奪に巻き込まれ、再び更生施設に収容される。終身刑になり、囚人に歴史教育をしているが、絶望は募るばかり。そこで電流の流れる有刺鉄線に突っ込み、命を絶つ。「たった一人の反乱」がこうして終結する。
 ベブはアッパークラスの一員であって、伝統や教養が世界の緩やかな変革と改善を起こすことを信じているが、全体主義社会では歴史は終焉していて、改善の余地のない完璧な社会になっているとされる。「道徳的判断の自由」や思想・良心の自由は保持できたとしても、社会のアノマリーにはもはや存在できる場所がない。そうすると、生きている意味がはく奪され、自分の価値がゼロであることを思い知らされたベブには、自身の空虚や無を埋めるイデオロギーも与えられず、残された道は自死することのみであった。
 これもまた労働者や民衆の憎悪と社会変革の不可能性による絶望の書。書き方はのんきでユーモラスであっても、社会の閉塞はなんとも厳しいものがある。ナボコフ「ベンドシニスター」のように狂気の王国に自分を閉じ込めることもできないという苦しい状況だ。
 注目するのは、オーウェルとバージェス(あるいはナボコフの、ハクスリーの、ザミャーチンの)ディストピアでは、言語の統制が行われていて、より少ない語彙と単純な文法の言語に変えることで、思考や判断のトレーニングが行われなくなること。この小説でも更生施設には、1789年までの本しか存在しない(なんとプルードンバクーニンマルクスすら捨てられているのか)。これも人を過去と断ち切る力になっていて、思考しない人々を生み出している(なので、ブックマンのいないブラッドベリ/トリュフォー華氏451度」と同じ)。
 みんなちゃんと本をたくさん読もうね。それだけでも全体主義社会に抗する運動になるのだよ。


 オーウェルとバージェスは言語の国家統制にとても敏感で、ニュースピークやワーカーズ・イングリッシュなどを仮構する。この国だと彼らの敏感さが分かりずらい。自分の妄想を含めて考えると、イギリス(ことイングランド)では階級ごとに文化や言語が異なるというところの反映だろう。同じ都市であっても、アッパークラスとワーキングクラスでは語彙や発音、意味内容などが異なっているという。まあ、王侯貴族にエリートが使うクイーンズ・イングリッシュと下町労働者のつかうコックニーくらいに、現在使われている言葉が違う。コックニーを使われるとアッパークラスには理解不能になることもあるそうだから(これもモンティ・パイソンのスケッチにあったなあ)。オーウェルとバージェスはアッパークラスの英語がワーキングクラスの英語に飲み込まれてしまうことに恐怖しているのかもしれない。
 これはこの国だとわかりづらいところ。江戸のころだと武家言葉と下町言葉という階級の違いが言語のちがいであったかもしれないが、たぶんラジオ放送開始後の標準語の採用(押し付け)で、階級ごとの言語の違いは目立たなくなっているようだから。そのかわりが方言の差別であり、標準語教育であり、階級ではなく地方差別か)。

 こういう記事があった。

「家が火事になった時に消防車を派遣してくれるサービス:年に75ドル/たいていの地域で、防火対策を提供するのは行政の役割である。だが、その事業を民営化し、保険の購入を住民自身に任せているコミュニティもある。テネシー州オビオン郡のことだが、消防士たちはジーン・クラニックの家が焼け落ちるのを黙ってみていた。クラニックが75ドルの年会費を払っていなかったからだ(マイケル・サンデル「これからの「正義」の話をしよう」ハヤカワ文庫 P456)」

 この事例では焼死者は出ていないようだが、起きたことはベブと同じ。さて、ここから消防サービスの民営化の是非を考え、国家の失敗と市場の失敗とどちらを重く見るのか、黙ってみている消防士が義憤にかられて消防行為をしたとするとそれは罰せられるべきか称賛されるべきか、保険に入れない貧困者のために周辺住民は支払いを代行するべきか(それと行政サービスにすることとの違いは何か)などまで検討することになる。