odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

アルベール・カミュ「異邦人」(新潮文庫)-1 植民地で起きたヘイトクライム事件の概要。ムルソーにとって太陽はフランス国家の象徴。

 この高名な小説に関する言説で奇妙なのは、語り手の「私」はなぜ「異邦人」なのか、どこに対して異邦であるのかが問われていないことだ。語り手の「私」は裁判官にも陪審員にも弁護士にも司祭にも愛されていない、共感を得られていない。その理由は、「私」が彼らの理解の外にある「異邦人」であるからなのだが、フランス領アルジェリアで生まれたフランス人がなぜ「異邦人」なのか。もし邦訳タイトルが「L'Étranger」や「ストレンジャー」「アウトサイダー」であれば、容易にでてくる問いなのに。

 論証をすっ飛ばせば、「私」が「異邦人」なのは以下の三点において。ひとつは宗主国フランスに対する植民地アルジェリア住民であることで。もうひとつはパリの知的エリートに対して大学を中退した脱落者であることで。三番目にはキリスト教国において「神を信じない」「道徳原理をもっていない」積極的無神論者であることによって。背景にあるのは、フランスが植民地をもつ帝国主義であることだ。フランスの富を増やすように植民地を収奪する。それにあたり植民地では先住民を抑圧する差別政策がとられている。「私」はこのようなフランスの帝国主義から落ちこぼれている。なので中心からは追いやられた周辺、すなわち「異邦」にいる。異邦なのは場所だけではなく、パリのエリート養成コースから脱落した者でもあることも。中央に行けず、植民地でも官吏や企業のエリートコースに入れないで、中小企業の安給料で事務員になっている。彼には栄達の道がなく、将来収入が増える可能性もない。それにキリスト教信仰を認めないので、地域の宗教共同体にもはいれない。カソリックの国フランスで積極的に無神論を主張するのはそういう疎外の理由になる。「私」はフランスというシステムに居場所がないのだ。

 

 自分の問題意識に似た論文を見つけた。ざっと見では、全然参考にならなかった。「シーシュポスの神話」に言及するのなら、ムルソーの放蕩と背教を取り上げないと「異邦人」な理由はわからないんじゃね。
東浦弘樹ムルソーは異邦人か ──カミュの『異邦人』をめぐって」

https://core.ac.uk/download/pdf/143631661.pdf

 

 そのような若い男がいる。彼の母は認知症が進んだためか、離れた街の養老院に入居している。その死亡通知が届き、事務所に有給を申請して厭な顔をされる。熱く不快な遺体安置所で徹夜をし、翌朝の葬儀では疲労している。帰宅した土曜日には結婚したがっている女と映画を見て情事にふけり、悪友と連れ立っているときに見かけたアラブ人が自分らを見張っていると思い込む。再び町で出会ったとき、因縁をつけると、ナイフを手にしたアラブ人に銃弾を発射した。倒れているところにさらに4発も撃ち込む。
 「私」はアルジェの暑さにうんざりしているので、その不快を自然現象に求める。でも彼をそうしている社会や世間のことにまで関心をむけない。そして帝国主義の先住民軽視や人権無視が彼に内面化されていることに気づかない。「私」をバカにし、こけにし、軽蔑するフランス人はたくさんいたのに、フランス人には攻撃しない(むしろ受け入れてしまう)。かわりに外見や衣装でフランス人と明確に区別されるアラブ人にはコミュニケーションをとることもなく、ピストルで銃撃する。ピストルを発射した動機を「私」はうまく説明できないし、「いいたいことは何もない」ので、「太陽のせい」とうそぶくしかない。実際はアルジェの町と、アルジェリア全土に張り巡らされた構造的差別が、うだつが上がる可能性がないとあきらめている「私」をレイシストに育て上げた。この小説の事件は、フランスの植民地アルジェリアで、社会から脱落したフランス人が因縁をつけられたという思い込みで先住民であるアラブ人を射殺したヘイトクライムなのだ。
 殺人の動機を「太陽のせい」としたとき、ムルソーの言う「太陽」はフランス国家のメタファーではないかと妄想。宗主国フランスが植民地アルジェリアに対して行っている政策の「せい」で、「私」ムルソーが政策の命じるところを反復したのだ。すなわちムルソーの殺人・ヘイトクライムは国家の了承の下に行われたのだとする。彼が「太陽のせい」というのは、国家の庇護を求める「無罪」の申し立てなのだ。フランス革命の「自由・平等・同胞愛」のスローガンはここではフランス人優位とアラブ人差別を実行する根拠になっている。このスローガンは近代の扉を開いたものだが、帝国主義になると植民地政策と人種差別を正当化するイデオロギーに堕してしまったのだ。フランスとアルジェリアには明文化されていない構造的な差別がある。
 構造的な差別は裁判であきらかになる。殺されたアラブ人には名前がない。過去の生活も家族構成もあきらかにされない。被告の「私」もそうだが、裁判長も陪審員も「私」の弁護士(全員フランス人)も、誰が殺されたかに関心を向けない。アラブ人であるということだけで、人格と人権を損なわれている。このように植民地の先住民は、宗主国の構成員からもシステムからも人間扱いされない。
 「私」ムルソー帝国主義国家では、貧困と収奪の対象にされていて、中心から差別されている存在だ。そのようなフランス人がさらに社会的な立場が弱いアラブ人を差別する。差別の階層はいくつもあり、複雑にからんでいる。アラブ人も家に帰れば、妻や子供に暴行している可能性がある。国家が構造的な差別を変えないので、弱いものがより弱いものを差別する事件が絶えない。
(「私」の前に、老犬を「死にぞこない」といって残虐行為を加える老人が現れる。その老犬がいなくなって老人は狼狽し、すっかり意気消沈する。差別の加害者であることでレーゾンデートルを感じているものが、被害者を失うことで意気阻喪する。この関係は、「私」とアラブ人を象徴する。犯行の前では「私」は生きていることに消極的でも関与できたが、逮捕され裁判が進むにつれて生きる意味を感じなくなる。生に意味はない。ギロチンで首が落とされるときに、観衆から憎悪を向けられることだけが残りの時間で希望になる。ずっと関心を向けられてこなかった空虚を埋めたいのだ。)
 この事情は、邦訳の一人称を「私」ではなく「俺(おれ)」とぶっきらぼうな男言葉にするとよくわかるだろう。他人に対して居丈高にふるまうときに使う人称であれば、上司や同僚への無関心、女友達への暴力性、植民地先住民のアラブ人への差別意識はより鮮明になる。ムルソーレイシズムを持つことから全体主義運動に誘惑されている気分もみえてくる。

 

 

 たぶん同じような視点でカミュの「異邦人」を読んでいる小説があることを教えられた。殺されたアラブ人の弟が事件を語るという物語。
カメル・ダーウド「もうひとつの『異邦人』―ムルソー再捜査」
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784801002432

 

2023/08/28 アルベール・カミュ「異邦人」(新潮文庫)-2 植民地で起きたヘイトクライム事件の背景。無神論者は地獄行きになる。 1942年に続く