これまで注がない柳瀬尚紀訳(新潮文庫)2009年と、少しある結城英雄訳(岩波文庫)2004年を読んできて、最後に最も参考になる注釈がついている米本義孝訳を読んだ。最も参考になるという評価ができるのは、先に二回読んだからだし、いくつか参考書を読んだから。もし初読が米本訳だったら、そこまでは言えなかっただろう。この翻訳は2008年にでたので、当時の最新研究が反映しているはず。そこまで細部を穿つのかと研究者の興味・関心の深さ、執着には驚きました。
「バージェスによるジェイムズ・ジョイスの名解説書であるJoysprick [15] だ。/この本で、バージェスは小説家を二種類に分類する。一つは、ことばをある世界を描き出すための透明なツールとして使おうとする小説家。そしてもう一つは、ことばをことばそのものに耽溺する形で使う小説家。」
最初の方(山形はタイプ1とする)はほとんどすべての小説家。できた創作は何が書いてあるかがとても大事。後者のほう(山形はタイプ2とする)の代表がジョイス(ほかにナボコフ、バージェス、ウィリアム・バロウズをあげる。おれだとあとロレンス・スターンとルイス・キャロルを入れる)。タイプ2の作家はこういう人たち(でも、タイプ1とタイプ2はきれいに分かれるものではない、と山形は釘をさす)。
「変なことばをたくさん使う作家。それを読んでも何か頭にある世界が描き出されるわけでもない。何が起きているかもよくわからない。読んでもいたるところ違和感ばかりでひっかかってばかり、一向に先に読み進めない。そんな作家たちだ。駄洒落、語呂合わせ、韻、文字の遊び、決まった形式への固執――そんなのばかり。表面的に読めるストーリーなんかより、そっちのほうが大事だったりする変な小説や詩。でも、そこにこそ小説の、小説固有の価値があるんだ、とバージェスは主張する。こうした作家たちは小説や文章にしかできないことをやっている。」
そういうタイプ2の代表例がまさに「ユリシーズ」と「フィネガンズ・ウェイク」なのだ、という。
ではその前に書いた「ダブリナーズ、ダブリンの市民、ダブリンの人々」ではどうか。ユリシーズで変貌する前にはタイプ1の小説を書いていた。それにしては筋がないし、大きな出来事がないし、主人公らしい主人公はいないのがちょっと変。そんな感じにおれは思っていた。でも訳者=解説者によるとそうではない。直接話法と間接話法の使い分け、ときには地の文でキャラの心理を語るという話法も使う(彼より前の小説では、こういう文体はない)。キャラの職業、人種、性別、年齢などに応じて単語や文体を使い分け、特異な言葉を使用する。時に饒舌であったり、時に省略をいれたりする。過去の創作物の引用やパロディを頻繁に行う。こういう実験をすでに20代に書かれた本書の短編で試みていたのだって。こういうのは翻訳ではスポイルされるので、注釈で指摘されないとわからない。
(20世紀後半になるとジョイスの方法や文体は作家に普及してしまったので、ジョイスより先に出会ってします。そのあとジョイスに出会うと、よくある陳腐な手法で書かれているように思えてしまうのだ。読者で歴史的遠近法が働いてしまう。)
それに当時の時代状況や習俗が今とかなり異なるので、これも専門家による解説が必要だ。とはいえ、注抜きで読むべきだという柳瀬尚紀の主張にも納得するところがある。まあ、二種類以上の翻訳を楽しむくらいのことを読者はするべきなのだろうね。タイプ2の小説にはまると、複数の翻訳テキストを比べるのは楽しいよ。
後、過去の読書でまったく読み取れなかったことを教えてもらったのでメモ。
・「二人の伊達男」と「小さな雲」は主人公と副主人公の設定がとてもよく似ている。
・「対応」の登場人物は、相手の言葉を繰り返す。ただ微妙に変えている。これは主人公の清書係が書類を微妙に写し間違えることに関連しているかも。
・「恩寵」は神曲とヨブ記の枠組みを借りたパロディ。
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