odd_hatchの読書ノート

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ウンベルト・エーコ「前日島」(文芸春秋社)

 「薔薇の名前」で14世紀中欧の異端と修道院を描き、「フーコーの振り子」でテンプル十字団以来の西欧秘密結社の歴史を描いたエーコ、今度は17世紀を描くことになった。この直前には、コペルニクスガリレイ天文学革命が起きていて、デカルトパスカルらの近代哲学が始まり、ゲスナー以降の博物学ができるなど、中世が近代に切り替わった変革の時代である。しかし、そのような動きも全体と見れば微々たるもので、やはりスコラ哲学と神学の影響は大きく、また技術の未発達は実証的な思考を行うにはまだ足りない。だから、この時代を単純に近代の原型とするわけにはいかない。そういう時代を描こうとした作品。
 といいながらも、舞台設計は異常だ。主人公は、優柔不断で自立していない優男ロベルト。世界周航の探索船にスパイとして搭乗するも、南太平洋で難破。「ダフネ」と名づけられた同じ嵐で座礁した船で遭難後の生活を送る。ぐうたらなロベルトは呆然としながら、過去の冒険を回想。イタリア生まれの少年が家を出て、イタリア北部の城でフランスとスペインの戦争に巻き込まれ、そこにいることができなくなり、パリに行き、最新思想を吹聴しているうちに上記の次第となる。まあ、自立心のない少年トム・ソーヤーがパリの宮廷生活にあこがれるも、「赤と黒」のような宮廷陰謀に巻き込まれ、ガリバーのように外洋冒険にでかけるはめになり、ロビンソン・クルーソーよろしく遭難し、フライデーの代わりに老年の神父に出会って、上記の思想の革命家の話を聞きながら、「ウィリアム・ウィルソン」のようなドッペルゲンガーを経験し、シラノ・ド・ベルジェラックのようなSF的な冒険をするはめになり、ワイズミュラーのような水泳選手になる、そんな感じ。時間が行ったり来たりするのは「トリストラム・シャンディ」かな。時代は17世紀初頭でも「近代」の文学を全部詰め込んでいて、大きな枠組みは中世の騎士物語と冒険譚。さらには、神学・数学・天文学博物学・機械・航海・詩学・恋愛術・拳闘術その他の博学で饒舌な話をとめどなく聞かされることになる。
 ネタの積み込みということではエーコの前述の著作をしのぐかもしれない。これを咀嚼吸収するには相当にタフな知的胃袋が必要で、いったいどれだけの前提となる知識を持たねばならないのか。しかも、現代の小説のようなスピーディーな展開などないので(このあたりは当時の小説を模倣しているはず)、テンポののろさにも耐えなければならない(なにしろ半分を過ぎたところで、せいぜい1週間程度しか「時」は進んでいないのだから。その間、回想シーンは別として、登場人物は一人しかいない。書物の半分に至って先に船に乗り込んでいた神父と邂逅するが、それから先しばらくは2人だけしか登場しない。3分の2あたりのころに、この神父も退場。
 ついには一人だけが残ることになり、同時に彼の妄想(対惑星のように彼と同じ格好をしていて、性格の反対な人物を想定し、彼によって自分がひどい目にあっているという物語)が激しくなり、どんどん感情移入すると同時に、その物語が前半の彼の半生の物語に侵食してリアリティさが失われ、実のところは最初から彼の妄想であったのではないかと思わされる。そんなリアルと想像力の混淆というか差異をぼかしていくというのが、17世紀あたりを境にした中世と近代を区別するものではないかしら。こんな具合に古い形式にのっとったと思われる「物語」が次第に脱臼していく。最後に、主人公はダフネ号を脱出して、日付変更線を遡行していく。今日でも明日でもない「瞬間」に生きることを決意するというのは、そこに近代の自我の誕生を見出すべきなのか、「幸福に暮らしましたとさ」という結末を約束しない「小説」の誕生を明らかにするものなのか。徹頭徹尾リアルに書き綴ってきた物語が、最後にオレンジ色の鳩を飛ばすことによっていっきに幻想の世界にワープしてしまったのか。いずれにしろ読者を宙ぶらりんにして、哄笑をあげつつ逃げ去った作者の背中をぼんやりと見送ることになった。